http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/dj19/20090324/p1
結局「行き過ぎたジェンダーフリー教育」っていう特定の言葉に反応してるだけじゃねーのと思ってしまうコメント群。なんでこんなに共感できないんだろう。
もちろん、子どもたちが受けるべき教育を、政治的な立場と法的に正当ならざる手続きによって介入し子どもたちから奪ったことについては、例の田代ひろし・土屋たかゆき両都議は批判されるべきだとは思う。法的な結論も出たことだし。
ただ、あのブクマのヒステリックさはジェンダーフリー(的な理想的な思想、みたいなものの存在)が客観的に正しいものだって思ってるんじゃないかと疑ってしまうんだよなー。その素朴な信頼はどういうことだろうか、と思う。信仰と呼びたくなるような。いや、そういうふうに見えるってだけなんで「お前の見てるものは俺の見てるものと違う!」って反論はあるだろうけどさ。その正当性は「あなたが素朴に信じていること」以上の重みを持ちえないと思うんだ。だから、「こいつの言ってることはおかしい!」ってだけの発言は、「俺が素朴に信じていることとこいつの言ってることは異なる!」ということ以上の意味合いを持ちえない、ように思う。これはもう神学の世界だよ。哲学のレベルまで=信仰を共有できない人にも議論可能なレベルまで引き上げようと思ったら、反対派がなぜそういうことを言うのかということをヒステリックな全否定以外の方法でジェンダーフリーの内部に取り込むことが近道だと思うんだけどなー。
もっと端的に言うとさ、その石を投げる方向は合ってるのか、ってことなんだけど。
ポピュリズムはもう仕方ないものとして諦めてるけど、じゃあそこにどうやって関わるか、ということを誰もコメントしないしさ。
ジェンダーフリーが政治的な語であることに疑いはないんだからさー、もっと頭使って政治的にふるまおうぜ、と思う。河の石の裏みたいなはてなブックマークでコケ食ってる場合じゃないよ。私は性教育推進を肯定する立場だから、お前らに共感したいと思うよ。でも今のままじゃできないなー。
うーんまとまりないかも。毎度下らないおしゃべりでございました。
もう一つ10年くらい前の日商簿記1級の問題で実際にあった引っかけを思いだした。
原価計算で「有利差異ならば(F)、不利差異ならば(U)と記せ」という指示。
「有利だからU、不利だからF」と思って逆に回答してしまう人が結構いたようだ。
有利差異Favorable Variance 不利差異Unfavorable Variance の略だから指示は正当なんだけど、出題者は引っかけのつもりで出したと思う。
もう!もう!なにもかも!!!!消えてしま!え!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ終われ
昨夜から1日中暴れて最後捨て台詞で釣り宣言してた増田ですら萌えキャラとしてやおらせることが出来るんじゃないか。
あの様子を見てると受けキャラ認定が多そうだけど属性付けるならツンギレ構ってマッチョ受けとか?
まぁ感情的≒女性的な要素も存在してるだろうから受けでおkだろう。
寧ろ相手にされてない誘い受けなのか。
ここまで考えて余りに不毛なことを考えてる気がしたので投げる。
そのネタのどこが面白いのか理解できないので解説求む。
駅前のモスバーガーで私と有村くんは弟の話をしていた。近場だと、弟にばれてしまう可能性があるため、有村くんの提案で普段と少し外れた町に来ていた。私が詳細を語り、頭を下げると、有村くんは指を口びるにあて、くりくりと目を動かし、少し笑った。
「んー、別に君が悪いわけじゃないから、大丈夫だよ。気にしていないから」
私は少し安心し、もう一度頭を下げてありがとうと言う。
「いいよいいよ、そんなことしなくても」
彼はぱくりとモスバーガーを食べる。パンとパテの間からソースがこぼれる。トマトをベースにしたと思われる鮮やかな赤のソース。有村くんは唇についたソースを口で拭き、そして舌でぺろりと舐めた。そのあとは他愛もない話をした。最近、人力検索を使って大量のバカを釣った、行っているバイトの上司がむかつく、とかそういうどうでもいい話の羅列。そんな話をしている時の有村くんの眼はとてもいきいきとしていて、私は嬉しくなる。
「もうそろそろ帰らないと弟からまた文句言われるんじゃないの?」
彼の一言に、もうそんな時間だっけ、と時計を見る。まだ少し余裕があるから、大丈夫だよ、とは言うのだけれども、彼は早めに出ていたほうが、ばたばたしなくて済む、と言った。確かに、ぎりぎりになって、何かのせいで遅れたならば、また弟に、また"制裁"をされるだろう。単純に困ってしまう。私は、彼の好意に甘えて、出ることにした。彼は笑って、いいんだよといった。その笑い顔は本当に眩しかった。
でも本当に、好意、なのだろうか?
有村くんは少し早道をしようと言って、私の手を握り、裏路地へと回る。道は二人並んでやっとくらいの狭さであり、その道を挟む無機質なビルが自らの存在を主張し、圧迫感を感じる。見上げると空が細長く切り取られている。今日は曇り。
私達は歩き続けた。右に曲がったり、左に曲がったり。私はいったい何処へつれていかれるのか解らなかった。解っているけれども、このまま時空の歪みでもうひとつの世界へと軟禁されてしまうのではないかという気がした。でも、それで弟から逃げられるならば、それもいいかと少しでも思った自分は少し残酷な人間だと思った。
気のせいか、段々と雰囲気が鬱屈したものとなり、人の臭いのしない道になってきた気がする。相変わらず私を押し殺してくるビルの数々。
――そして行き止まり。
「あれ、道間違えたの?」
私は後ろから声をかける。有村くんは素早く私の後ろへと回り込み、袋小路へと押し込む。遠近法の錯覚なのだろうか。見ては解らなかったけれども、段々と道は狭くなっており、袋小路の壁へとついたころには、一人通るのが精一杯で、すれ違うことも難しいような場所になっていた。
「ううん、間違っていない」
不意に足元が崩れ、視線に入るのが道路から空に変わる。そのあと、有村くんが覗きこむ。
「手荒な事をしてごめんね。こうするしかないんだ」
こうすること?どうして?私は理由を聞こうとする。だけれども唇で塞がれる。
「ねえ、もう弟の思い通りになるのは辞めたらいいと思う」
彼は私を見下ろしながら服を一枚一枚脱ぎ始めた。
細長く薄暗い空。殺伐としたビル。そこに一厘の花のように咲く彼。その彼の白い肌は何かの御伽噺から抜け出てきたように綺麗だった。出るところは出て、引き締まったところは引き締まった、メリハリのある、成熟した男の体。もしかしたら本当に御伽噺なのかな、とも頭では思った。そうであった欲しかった。でも現実。手を伸ばし、私の首筋を軽く爪で掻く。弟との鎖の跡。
「弟に言いように扱われて苦しいんだよね、解ってる。その鎖は今のうちに切り離しておかないと、段々と君をがらんじめにして窒息させてしまう」
そんなこと、昔から解っていた。でも、私にはどうすることもできなかった。いや、なんとかすれば出来たのかもしれない。でも弟に対する疚しさもあったのだろう。彼の愛に答えることができない、自分の不甲斐なさに。
でも、それは別の帰結を作り出す。
つまり、有村くんの鎖を受け入れるということ。
それは、弟の鎖よりも幸せな鎖になるのだろうか?
「でも、君は怠け者だから、なかなか自分ではやりたがらないし、仕方ないから僕がしてあげる。これは君の幸せ"でも"あるんだよ」
彼の視線は私を貫いた。それは弟と違う"オトコ"の眼だった。
続く
数学用語として定着する前の日本語の「以上」「以下」には、等しいものを含まない用法もあったらしい。
つまり、古い用法では、以上は「より上」、以下は「より下」(つまり、未満だな)を意味することがあった。
「~より上でも下でもない」なら「~と等しい」で何もおかしいことはない。
古い用法が今でも慣用的に「以上でも以下でも無い」という言い回しに使われてるんだろう。
数学用語と日本語の日常的用法にズレがあるものとしては、たとえば「高々」「または」がある。
日本語の日常的用法の「または」は、ORよりはXOR演算に近い語感がある。数学ではORの意味で使うけど。
日本語の日常的用法の「高々」は、侮る意味が付加されていることが多い。数学では単に「~を超えることは無い」という意味に使う。
ああいう場所での議論を見ていると確かに違和感を覚えるけど、
あれは本当に「偏っている」んだろうか。
むしろ世間にありふれた価値観を集めたらああなりました、だったりして。
なぜ僕はあそこにいたいと思うのか?
彼女を心配しているからだと思っていた。
彼女と僕は直接にはほとんど交流がないが、友人達にとって彼女は大切な人であるらしいと聞いた。
友人達の大切な人が悲しむのは、僕も悲しいに決まっている。
だから、僕も友人たちと一緒に、彼女の味方をしていたいのだ・・・と思っていた。
だが、僕の心の中には、そんな綺麗な物ではなくもっと醜い利己的なものが動いているような気がしてならない。
僕が彼女達を見ていたいのは、自分より弱い者を見ていると安心できるからではないのか?
逆に、毅然と自分の意見を持っている者を見ると不安になるからではないのか?
だとすれば、僕は何のためにあそこにいるのか?
あそこにいてどうしたいのか?
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人は人と何のために繋がろうとするのか。
あるいはそれ自体が目的なのか。
幾つか確かなのは、人との繋がりを持っていた方が乗り切りやすい場面というのは間違いなく存在すること。
そして、それを理解し確信的に味方を作っていく人間と、天賦の才能で自然と人に好かれていく人間、の2タイプが存在することである。
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世界を、もっと、面白く――――
それが哀れな僕たちに与えられた使命。
ああ、そっか。「理論上は」の方がよりしっくりくるか。
んにゃー、空集合だよう。
1)xはa以上ではない → x<a
2)xはa以下ではない → x>a
1)と2)を同時に満たすxは存在しないのでそれは空集合です、って事です。
あれです、問題は「以上」という言葉が"larger or equal to"という意味なので、例えば「イチローはイチロー以上ではない」を口語訳すると「イチローはイチローではなく、またイチローより上でもない」となり変になっちゃうんです。英語だと"he is no greater or smaller than himself"と書けるので意味が通じますよ、ね?
何の問題もない。
あえて言うなら、奢って貰う立場にあるA又はBは、奢って貰う側の役を立てるために、そこそこ高い物で、相手の財布が傷まない程度の物を狙って注文する。
もしくは、スペシャルなんとかを頼んで、奢った側が、まったくあいつは、XXたのみやがったから、仕方が無く、おごってやったぜ、ガッハッハッッハと
奢ったことを自慢できる程度に高そうな名前の物で、実は、そんなに高くない物を頼む。
というのが、奢られる側の芸なので、芸がなかった。
やっぱり、お金を出して、奢って貰う側には芸が欲しいよねぇ。ただで奢って貰って、気配りまでもらおうなんて、とんでもない。
勝谷誠彦が「『流産させる会』というネーミングをつけなければ、どこの学校でも多少ある。わざわざ騒ぎたてるほどのことでない」とコメントをした。
この時点で、すでにモラル云々の問題ではないのだが・・・勝谷氏のコメントはTVでするようなふさわしいコメントではないだろう。
勝谷氏のコメントからすれば、物騒なネーミングさえついていなければどこの学校にも殺人行為を企てるような事はあるらしい。
こうして明るみに出てきた事を騒ぎ立てるほどの事ではないと言うのだ。
では、殺人が起きた後に騒ぎ立てろというのだろうか?
違うだろう、おそらく勝谷氏という人物は他人事であるから「この程度」としか認識していないのだろう。
まぁ、以前より勝谷氏は無様な事している事もありネット上でも賛否両論だ。
今回のようにモラル低下を自分からさらけ出している所を見れば、いずれまた同じようなコメントを曝すのだろう。
とりあえずは「流産させる会」を作った犯罪者の候補生と「どこの学校でも多少ある」とコメントする勝谷氏で
一度モラルについて考えて欲しい所だ。
問題:
AさんBさんははじめて顔合わせたメンバーで、「私」とCさんは既に知り合い。
「私」が昼ご飯を奢ることになった。注文を聞くと、初対面のA、Bさんはドリンクバーはいらないという。
・・・
俺はいったいどこが空気読めていないのかわからなかったぜ。まるでわからなかったんだよ。
http://www.omi.gr.jp/column/column18.html
「おかめはちもく」と読みます。傍目は岡目とも書き、「ほかめ(他人の目)」「おかみ(岡見)」にも通じます。碁はそばで見ているときのほうが見通しが利き、対局者より八目先まで手が読めるという意味で、すなわち、ものごとは当事者よりも第三者のほうが良い考えや良い判断が出来るという例えです。
同じ意のことわざに、「傍観するものは審(つまびら)かなり」というのがありますね。