自分の行動はあまり変わったつもりが無いのだが
彼女ができてからはやな奴って(彼女にも)言われるようになった
自信が出て態度が尊大になったのかも知れない
どのみち、それ以降は今に至るまでやな奴だし、女が途切れることもなくなったと言うのは自分の中では事実
なら実体験で語ってくれ。
「いい人」より「よくない人」が好かれるという思考に至った理由や、「いい人はすべて恋愛対象外である」という一般的でない論理を「一般的だ」と主張しまくる理由が、自分には漫画バーチャルかネットエセ論壇しか思いつかなかったからそう書いただけ。ここに至るまで増田がそう思い込むに至った理由が説明されていないのだから自分で想像するしかないじゃん。
いやそうは言っても、元増田に「いい人」と言った人間の「いい人定義」は不明なんだよ。
悪意のない定義の「いい人」を言われたことが無い「いい人」もいるかもしんないだろ。
いい人って言われてたのが
やな奴って呼ばれるように変わるのって
なにをしたらそうなるの?
「やな奴」って言ってくれって言う、じゃないよね・・・
“いい人は恋愛対象外”増田がその論理にたどり着いた経緯自体は、漫画やネットなどに溢れる「いい人なんだけど、どうしても好きになれなくて……」みたいな論調を耳年増的に情報として蓄えすぎた故の歪みと弊害ということで納得できなくもない。
言葉の使い方と考え方として間違っていることは確かだが。
頭の中がアレな事で有名な我らがサッカー協会会長様から、先日このような提案がなされた。
すでに地方協会訪問の際に、「10-15歳の育成世代でバックパスをさせてはいけない」と地方協会幹部たちへ指導方針の通達を始めている犬飼会長。ドイツのような“ルール化”まで視野に入れる。育成世代の試合でバックパスを出した場合は警告を出したり、プレーをその場で止めるなどの特別規則が導入される可能性まである。
http://www.sanspo.com/soccer/news/081108/scg0811080504000-n2.htm
なにをもって『バックパス』と見なすのか定かでないが、仮に記事後段にあるようにラグビーの逆、「後方へのパス一切禁止」という事であるのならば、これはもはや別の競技である。
よって、このルールの元で行われる競技をア式蹴球ならぬ犬式蹴球と定義し、そこでの戦術を考察したい。
犬式蹴球においては、縦方向のパスコースが切られるのは鉄板である。さらに横パスのインターセプトも常に狙われる。そこがアタッキングゾーンならばドリブル突破を狙うべきではあるが、そうではない低い位置ならばどうか。横方向へドリブルしつつ縦を空け、前方へのパスの相手を探るのが正解となるだろう。守備者の圧力を受ける為、実質は斜め後方へのドリブルとなる。
この、「進行方向に対して斜め後方を見ながらのドリブル」というのは基礎練習に組み込むべき基本動作と言っていい。
マイナス方向へのクロスが入れられない為、コーナー付近やゴールライン近くは完全なデッドゾーンとなる。えぐればえぐるほどパスコースがなくなってしまうのだ。
サイドでボールを受けた選手は、早いタイミングでアーリークロスを入れるか、中へドリブルで切り込んでいくしかない。
上記デッドゾーンに追い込まれない為に必要となるのがこの「逆ウェーブ」だ。
本来のサッカーにおける「ウェーブ」とは、ボールホルダーの後方内側にいる選手が、ボールホルダーの後ろを通り外へ回り込んでいく動きを言う。これによってサイドの数的有利とマークのずれを生じさせる戦術である。しかしながら、犬式蹴球においてはむしろデッドゾーンへ誘い込まれる危険性が増すため有効とは言いがたい。
有効なのは全く逆の動き。ボールホルダーの前方外側にいる選手が後ろから内側へ回り込んでいく。この動きで横パスを受ければ前を向いてボールを持てる可能性が増える。
トップの選手へのパスはスルーパスでなくてはならない。マークに付かれている状態で足元へ入れてしまうと次の手がなくなる。『落とす』ことが出来ないのだから。(よって、3人目の選手が飛び出すという動きも無意味である。)トップの選手はむりやり振り向き突破を狙う他ない状態となり、これはかなり困難を伴う。
それでは、犬式蹴球においてポストプレイヤー・ターゲットマンが不要であるか、というとそうでもない。相手最終ラインの選手は自分の後方へボールを落とされる事を嫌う。キーパーに返せないのだから、後ろ向きでボールを追う形となればタッチかコーナーに逃げるしかない。よってフィードボールは無理にでも跳ね返さざるを得ず、そのセカンドボールを狙う戦術が有効となるだろう。深い位置からボールを繋ぎ組み立てていくのはあまりにリスクが大きいというのもある。極論すれば、相手センターバックにわざとボールを渡し、そこを奪いに行くほうが効率的なくらいだ。
深い位置でスローインを得た場合、近くの選手に入れてしまうと手詰まりとなる。よって、直接フィニッシュが狙える位置まで投げ入れられる選手が、チームに最低1人は必要。
上記した通り、ゴールキーパーとの間にボールを落とされるのは避けたい。また、ワンタッチで入れ替わられるのを防ぐ為にも、ある程度距離を取っておく事が必要だろう。最終ラインの選手は無理にインターセプトを狙わず、いったん楔を受けさせ、その後詰めて振り向かせない形が有効か。
犬式蹴球の守備は基本的に縦方向のパスを警戒する形となるが、サイドだけは例外となる。ある程度の深さからは縦へ縦へ繋がせ(あるいはドリブルさせ)、デッドゾーンへ追い込むべし。
ドリブルが大きくなった相手に対し、ボールと相手の間に体を入れる。これは決して良い奪い方とはいえない。プレッシャーがかかった状態で後ろ向きにボールを持つ事となり、手詰まりとなる。
これはむしろ守備というより攻撃か。上記のように最終ラインの選手が後ろ向きでボールを持たされた場合、バックパスができないのだから、ゴールキーパーはエリアを大きく離れて(少なくとも横並びの高さまで)ヘルプに向かう必要がある。
犬式蹴球は放り込みやパワープレイ、力任せのドリブルをベースとした大味な競技となる事が予想される。また、その特殊性により、場合によってはサッカーと正反対の戦術的セオリーを持つ事となる。
よって、犬式蹴球の習熟は、少なくとも「サッカーの強化」には不適であると考える。ゴールキーパーの足元の技術に関してのみ効果があるかもしれない。
まあ、彼が言ってるのは「後方へのパス一切禁止」という事ではないのだろうさ。「前へ仕掛けるべき状況で仕掛けなかった選手にペナルティを」って事なんでしょうよ。でもね、そんなのを『ルール』として明文化できると思う?主審が一定の基準でジャッジできると思う?若年層指導者は『消極的プレー』に対して今まで全く指導をしてこなかったと思ってる?
彼が言ってる他の寝言、秋春制だとか『最強チーム』だとか含め、彼は自分が銀の弾丸を撃てると思い込んでるんだろうな。自分の一言で状況が劇的に改善される、と。他の奴らは何もしてこなかったし何も考えてない、と。
確認していないのだが、僕が恨みにも似た気持ちを抱くはてなブロガーのブログが閉鎖されたらしい。
時折その人のブログを読んでは怒りを蘇らせていた。
本人のブログを荒らしたり、掲示板で晒したりしなかったのが奇跡かと思うほど、
僕の心は荒んでいる。
閉鎖されたということは、僕は救われたということだろうか。
「ブログを読む→怒りが復活→ブログを読まないことを誓う→どうしても読みたくなる→最初に戻る」
この悪循環が消えるのだ。
これで5年、6年前から続く怒り、恨みは消えるのだろうか。
時間が解決してくれるのだと思うのだが。
早く開放されたい・・・・・・。
「いい人は恋愛対象外」とひたすら主張している増田は、自分のこと「いい人」だと思ってるんだよね、多分。
で、「いい人は恋愛対象外」だから「いい人」である自分は恋愛対象外なのであろうと。
でもこんだけ認知歪んでる増田は端から見たら別に「いい人」じゃないと思うよ。
増田って実際に「あなたはいい人」って言われたことあるのかな。
なるほど。数日の議論を読んでみて、水村本の目次を確認してみると、否定派および肯定派がそれぞれの立場に別れた理由が少しわかっってきた。
目次・水村美苗『日本語が亡びるとき』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/32157995/
2章 パリでの話
なるほど。本で第4章以降を読んだ人からは、もう知ってるよという反応や具体的提案についての否定的コメントが出てくるのも頷ける。日本語とか英語とかあるいは語学教育とかについて何か語りたくなる人も現れるだろうし、反対に、多文化主義的な観点からのコメントも出てくるだろう。
わたしなどは、8月に読んだからでもあるが、むしろ第1章がとてもおもしく感じられた(そりゃあだって、理論的な解決がこの本にあると思って読む人なんているだろうか。水村さん作品に親しんでいる人はもちろんそんなこと思わないだろうし、煽った人たちの力点もそこにないだろう)。
おそらく、
柄谷周辺の論者の問題意識に沿って書いた議論の向かう先・解決策を期待してこの本を手に取るか、あるいは、「アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々」と交流しながら問題の所在を発見するというその出発点に着目するか、これにより、この本の評価はかなり分かれるのではないか。
多分、梅田さんがこの本について語りたくなったのも、水村さんがアイオワで様々な国からやってきた文学者と触れあう内に、日本や日本語についての問題に近づいていったというプロセスを、梅田さんの場合であればシリコンバレーでの経験になるかと思うが、この本を読みながら追体験し共感したからのではないか、とわたしは思った。
第1章のところだが、アイオワに各国の作家とともに招かれて出会った内の一人が、若いころロシア娘と恋に落ちたりもしたことがありその頃学んだロシア語を用いて盆栽に詳しいリトアニアの青年と会話のできるモンゴルの老詩人で、何かの時に水村が老詩人に向かって“You are an important person”といったときに、英語が苦手なのでたどたどしいながらもゆっくりと静かに“Everbody is important”と答える場面やそのほかの場面は、外のものに触れることでいくつかのばらばらの点が繋がり問題が自分のものとして感じられるプロセスとして見ることができ、さすがにマドル・スルーというようなものではないが、問題を自分のものとして受け止める過程はそれなりに緊張し疲れるのだが充実した読書だった。
そういうことが問題となってるのはずっと昔から知っているよ、何この話、古くさい、というのは十分あり得る反応だろう。ただ、問題の所在を個々人がそれぞれ理解するというのはそれとは独立に重要なことだろう。もちろん、この本とは別の入り口でも全然かまわないのだが。
そういう意味では、今回の騒ぎをきっかけに、こういう問題があるんだあ、と思った人にとっては水村さんの本は一つの入り口として悪いものではないと思う。
別の話。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20081109/p2
話は少しそれるが、これを読んで、まず、「あたし彼女」読もうと思った。
もうひとつ思ったのは、
『新潮』9月号に載った前半部読んだ感想としちゃ、読めたもんじゃないよ。
何の説明もなく日本の文学は一人で幼稚なものになっていっていたと断じている作家が、この『ひとり』をひらがなに開く言語センスすら持ち合わせない作家が、<叡智を求める人>は今の日本文学など読まないなどとぬかしているのだよ。
という記述について。この方の水村本の理解からはそのように読めるし、きっと正しいだろうと思う。
ただ、もうひとつの可能性もあるのではないかとわたしは考えた。(いま新潮および本が手元にないので原文を確認することができない。「一人で」あるいは「ひとりで」が本のどのような箇所でどれくらい用いられれているか確認しないままではあるが、Thscさんの指摘にインスピレーションを受けてわたしの理解を書いてみることにする。)
Thscさんの主張はおそらくこうだろう。
という文の「一人で」は、「おのずから(自ずから)」あるいは「ひとりで勝手に」というニュアンスで用いられていると理解できる。そうであれば、「ひとりで」とひらがなで表記するべきであろう、と。
しかし、もしかすると別の考え方もあるのではないか。
「一人で」と漢字で表記するという点に固有の意味を見ようとするならば、日本語が「ひとりで勝手に」幼稚なものとなっていった、という理解とは別の理解でこの文を読まなければならない。その理解とはこうだ。
水村の議論全体をふまえると、水村は「言語というものは孤立すると衰退する」と考えているのではないだろうか。言語は「一人」になると衰退する。
このようなニュアンスを込めて、ひらがなにせず、あえて漢字を用いて「一人で」と表記したと考えることはできないだろうか。ここではそのような理解の可能性を指摘してみよう(もちろんこれはまだ単なる思いつきの段階であり、実際には、本文で語が使用されている箇所を逐一チェックしていく必要がある)。
ただし、このように考えたとしても、それならば違った書き方をするはずだ、等の疑問は当然に出てくるだろうし、結局のところは、Thscさんの理解が穏当なところだろうとわたしも思う。
別の可能性を指摘しただけでは水村さんが確信犯で「一人で」を用いたことの立証にはならないし、ひらがなか漢字かの選択だけでこのような微細な部分をオミットするのは文章家として正しい態度ではないのだから、いずれにせよ批判されても仕方のないところだろう。
下向いちゃうしww
男にはせめて総武線乗って欲しい・・・
駅とかで迎えにこられたら・・・・もう最悪ww
常識的に考えて欲しいだけなんです!
京葉線で迎えにこられた時の恥ずかしさとか分かる?
あのね?たとえば週末10??20人ぐらいでディズニーランドとか行くでしょ?
え、総務の鈴木くん?
あ、この前も課長に怒られてたよね。
何でそれを言っちゃうの?っていう事を言っちゃうし、その仕事最優先でしょっていう事を後回しにしてどうでも良い事やっちゃったり。
なんて言うか、要領が悪いんだよね。
見た目もまあ、いわゆるオタクよね。
でも、悪い人じゃないよね。仕事も頑張ってるし。
いい人よね。
同じ「いい人」って言われてるのに。
総務の鈴木くん、カワイソス(´;ω;`)
そう。それが非難される「いい人」だ。
ああ、わかったわかった。
さっきから「いい人は恋愛対象外」とひたすら主張している増田くんは、「いい人という言葉は嫌味であり、いい人と言われる男はすべて『いい人である』以外に誉める部分が全くない人間である」という思い込みによって「いい人はすべて恋愛対象外である」という主張を繰り返しているわけだ。
つまり、いい人であっても同時に男としての魅力を兼ね備えている人を「いい人」カテゴリには入れてないんだ。
しかし「いい人が恋愛対象外ってそんなわきゃねーだろ」と説得している多くの増田は、いい人であっても同時に男としての魅力を兼ね備えている人を「いい人」カテゴリに入れている(実際にいい人なのだから当たり前だが)。
そして、たいていの女性にとって「よくない人」より「いい人」のほうが好まれるのは当然だから(よほどのだめんずウォーカーを除き)、「いい人は恋愛対象外」という理論に「ハァ?」となるわけだ。
そういう意味で、やはり言葉の定義に激しい食い違いが生じているんだね。
自分の中ではすっきりしたのでこの議論からは撤退しよう。
それでもそれは「いい人」批判などではまったくなく、「ただのいい人という印象で終わるのではもったいないから、一押ししてみろ」という話だ。