結論をいえば企業社会に適応するための「コミュニケーション能力」を身につけさせるため、ということになるんだろうけど
今の学校社会は流動性の低さを背景に一部のコミュ強者が圧倒的に有利なようにできていて、
会いもせずにたかが100字のコメだけで判断して批判していいの?w
http://anond.hatelabo.jp/20081109153229
という問題。
個人的には
・大量に「本の内容を誤解」して「それはひどい、なぜ賞めるのか分からない」というコメがつく
・梅田ブチキレる。
という流れだと思う。元の書評を読んだが、あれはひどい。本の内容を理解できてないか、理解していてもそのことを表現できてない。なのに口を極めて賞めてる。対象となる本など読まずとも、そりゃあれなら批判の一つも言いたくなるだろう。梅田がブチキレるのは筋違いだと思う。
たとえて言えばさあ。梅田がとあるレストランの料理を賞めたとするじゃない? 「その店の料理なんだけどすごいんだよ!トンカツソースとウスターソースを絶妙の具合に混ぜてて、あの味の深みは日本人の舌を変革するよね」……って、実は3日かけて丁寧に煮込んだデミグラスソースだったんだけど、とにかくそうブログに書いたとするわね。そしたら「梅田さん。トンカツソースとウスターソースまぜたくらいで日本人の舌が変革されるわけないっすよ」とコメがついたわけ。これって悪い?普通に考えて「梅田を信じてるから、梅田の説明を前提に批判を加えた」わけ。そしたら梅田の説明自体が間違いなわけ。これ、悲劇というより喜劇だよね。で、そしたら梅田がブチキレて「食いに行きもせず批判とか、馬鹿なの?死ぬの?」ってツィったわけ。お前そりゃ無いだろう、と。そもそも誰のせいなんだよ、それ。
…というわけで、要は発端は本人なんだよね。梅田と擁護者はまずそこに気づくべきだと思う。オレは、あんな書評であの本読む気になった人が沢山いるなんて、愛されてるんだなあ梅田さん、と思ったよ。
協調力をつけるのであれば、社会とか理科とか通常の授業の中で、グループ単位の自由研究をさせればいいんじゃね?
地域交流が目的であれば、月に一度のボランティア活動とかそういうのでいいんじゃない?
母校愛を深めるったって、そういうのは日常生活の中で生み出していくものだろうし
楽しい思い出作りとかなのかな
でも学校って思い出作りの為にあるのかね、本末転倒している気がするのだけど
20代後半だし、せっかくの一人の夜なんで、がんばってきた
場所は大阪の某飲み屋街
4万円握りしめて、案内所→セクキャバ(延長した)→案内所→ホテヘル
40分間で3人交代
デブ、ガリ、ベッピンの順
1回行ったらもういいや
写真と本人がホントに違う
顔は写真通りでも、すんげー腹出てた
スレンダーやと思ったのに、ぶーちゃんやった
初めてやから内容が濃い子がいいって伝えた通り、うまかった
どっちとも、1回経験したからもういいや
がんばって彼女作ろう
本人は書評を書いたつもりはないんだろうし、全部書いてしまうにはもったいないというのか、
感動が生煮えになるので今はかかないのだろう。
あくまで自分が共感した部分について触れているだけにしか見えないし、
だいたい書評というものは、書籍の全貌を読者に間違いなく届くようにゆるく解説しろというものでもないだろう。
まして個人サイトなのだからあんなので十分だろうし、asahi.comで書けとなるとああは書かないだろう。
となると、ああいうスタイルで十分じゃね。何かこう書くべきだというほどの何かあるんかねえ。
費用対効果!それをいうならば、公教育にどれほどの予算を注ぎ込んでいると信じてそれほど素敵な教育を期待しているんだかよく分からないのだけど。あなたはなんだかあれだな。海原雄山みたいだな。それも金払わない雄山。
公教育に予算がないからといって体罰や苛めまがいの指導が許されるわけじゃないだろ。これは最低限の要求であって高望みじゃない。これが高望みなら教員は児童相手に犯罪し放題になる。そういう教育なら廃止するほうがマシだ。
あのさあ。子供自身は別に「教育」なんて望んでないんだよ。それを「教育」すんのは結局親と社会の都合なんだよ。そんな子供に対して、だまくらかそうが飴なめさせて機嫌とろうが、とにかく「嫌なことでも押しつける」ことを認めないなら「教育」なんてあり得ないんだけどな?
そうやって開き直ればどんなむちゃくちゃなシゴキでも正当化できちゃうよな。
嫌々やらせても効果低いんだから極力嫌がられない方法にするよう努力をするのが当然と思うが。すべての子供が嫌がらない教育方法が存在しないから、嫌がる子供を減らす努力はしなくて良いとか思ってそうな人にはわからんのだろうけど。
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、俺はどうやら好きな異性のタイプというものは「魂が自分好みな人」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「魂のステージが高い子」ということ)
これまでの付き合いでわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような子も含めて、俺の場合、相手の容姿や性格や収入に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら歪んだ性格だろうが不細工だろうが借金もちだろうが相手の欠点らしきものですらだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、魂だけは(ステージが低い場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその子が修行などして頑張っているのがわかっても)。
理不尽な不機嫌などをぶつけられたり多額の借金を肩代わりされたり顔面や肌の汚さに気付かされても、俺はだいたいキレたりもせず真剣に付き合って受け止めるのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつのこの欠点さえ直ってくれればなー」ではなく、「こいつの魂のステージがもうちょっと高ければこういう欠点も苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。欠点自体には耐えることができた。耐えられなかったのはその魂なんだ。
逆にステージの高い子と付き合っていたときは、本当に何でも受け入れてあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初からおおらかな気持ちで受け止めることができた(何でもハイハイ聞いて真剣に相手していないとかではない)。
結局他に男ができて別れるはめになったりするわけだが(涙)。
※お前の魂のステージが低いんじゃね?とかいう話は本題ではないのでここでは結構。
魂が一番好きなところだと、真剣に好きなのだと思ってもらえないのだろうか。魂ってそんなにその人の本質とは別物?俺はそれこそが本質と思うのだが・・・。
「好きな異性のタイプは魂のステージが高い子です」なんて言うと程度の低い人間にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。魂最優先で恋愛対象を選ぶことはそんなに薄っぺらいことなのか?魂ってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話やインタビュー等で、好みのタイプを(冗談やネタ以外で)魂重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
1. 本当に、魂が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項(聞かれて第一に答えるような要素)である人は実はまずいない。【稀少説】
2. むしろ魂が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項に来ることは大前提過ぎて、あえて言う必要が無いくらいなのが常識なので言わないだけ。【常識説】
3. 魂が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項であることを表明することは、程度の低い人間に見られるか少なくともイメージは良くないので、思っていても言わない。【建前説】
4. 魂を要求することは、好みの中でもハイレベルの要求過ぎて、思っていても畏れ多くて誰も言えない。言うなれば、「好みのタイプは年収ウン千万円以上のやさしいイケメン」と言うのと似たようなもの。【高嶺説】
5. 魂は霊的情報のため、「性格」や「外見」や「年収」等などと違って不明確だったり、相手のステージが低いと自分へのステージが正確にわからないのではないかと相手に心配を抱かせてしまうので、そのような心配を避けたい相手に付き合いを遠慮される可能性があるため秘めておく。【心配説】
のうちのどれなんだろう。
結論
「好きな異性のタイプは魂が自分好みな人です」ということは、本当に程度が低いことなんだろうか。
別に相手の内面外見などを見る気がないわけじゃない。そういうのは知っていけば好きになれる自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなタイプは魂のステージが高い人」というような人が現れたら、感じ悪い?
別に傲慢な気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・。
費用対効果!それをいうならば、公教育にどれほどの予算を注ぎ込んでいると信じてそれほど素敵な教育を期待しているんだかよく分からないのだけど。あなたはなんだかあれだな。海原雄山みたいだな。それも金払わない雄山。
たとえば大衆食堂で飯食ってて「店主を呼べ!個人ごとに味の好みが違うことにも気づかぬ愚鈍な料理人を雇っているようだな!」「おいおいいい加減にしとけ。ここは大衆食堂だぞ。」「何を言ってる、大衆食堂だろうが何だろうがマズイものはマズイのだ!」みたいにわめいてんの。費用対効果っつー言葉を知らないのはどっちなんだ?それ。
いやだという感情以外根拠ないし、むしろ嫌でも押し付けていい根拠というのがあってよいはずがない。
あのさあ。子供自身は別に「教育」なんて望んでないんだよ。それを「教育」すんのは結局親と社会の都合なんだよ。そんな子供に対して、だまくらかそうが飴なめさせて機嫌とろうが、とにかく「嫌なことでも押しつける」ことを認めないなら「教育」なんてあり得ないんだけどな?
http://anond.hatelabo.jp/20081109203601#tb
猿と比べれば男女の違いなんて大差ないように
アルゴリズムのほんのちょっとした違いです。
それでも、綺麗な子には目を奪われてしまうし
会話して楽しい子とはまた話をしたいと思う。
そんなもんじゃないでしょうか。
唐突だが、耕耘機と書いてなんと読むか?答えは、「こううんき」。「こううんき」と読むのだ。だが、同じ「こううんき」でも、幸運機と書いた場合には別のものを指す。人間である。人はウンコとともに幸運を送り届けるという意味で、「幸運機」なのだ。この背後に横たわっている哲学の深遠さはおそろしく計り知れない。人間とはかくもウンコ臭い存在であるのだ。そうした驚嘆すべき現実存在としての人間のことを滑稽にも、「うんこ製造器」と呼んだ歴史上の人物が存在する。名前は忘れた。原理はこうである。食物を口に投入する。自動的にそこから栄養が吸い取られる。吸収を終えたあとの残りカスが「うんこ」である。この「うんこ」は濃縮されて「濃縮ウコン」になるので要注意だ。油断もすきもあったもんじゃない。その濃縮ウコンは別名ウンコ酸ナトリウムと呼ばれ、発泡剤、乳化剤、洗浄剤として、日用品や工業用途に用いられている。ウンコは、我々の暮らしを陰で支えているという訳だ。これをフランスの啓蒙思想家ヴォルテールはいみじくも、「うんぢから」という言葉で言い表した。ここテストに出るから要チェック。また、濃縮ウコンの質量と噴出速度の関係などの研究は、現代物理学の大きな発達をももたらした。その集大成こそが、うん力学的エネルギー保存則(うんぢからがくてきえねるぎーほぞんそく)、およびマックスウェル・ボルツマンのウンコー方程式である。今やこれらのNewton Undikara学は、世界中の大学生の必修科目となっている。
自分が読んで思ったのは、逆に元増田の崇高さとでもいうようなものに対する好感情だ。
同じはてなサービスの中で、これだけしっかり自分のいいたいことを代わりに(匿名で)補足してくれる人がいるということにも気づいた方がいいと思う。
うんうん。その「語感」に関しては、読み返してオレも正直マズいかなとは思う。だから「それじゃどう見ても相手の『人間』を否定してるじゃん」という風に感じた増田がおかしいとは思わない。
ただ、自分で日常的によく使うんだよね<『お前間違ってるよ』 ちょっとギャグっぽく。議論ふっかける皮切りに。
そういう風に軽く使うイメージがあるのでああ書いてしまったのだと思う。書き方としては増田が書いてくれたように「お前『のお金のルーズさ』は間違っている」みたいな方が「正しい」。
全力で釣られた//
ノリつっこみもできなかったダメダメなオレを許してくれw