努力に生きることはとても美しく見えて,そしてとても辛いことだろうと思う。
血の滲むような努力という言葉がまるで好意的に捉えられるのはどうしてだろうとも思う。
血も汗も涙も,汚くて,でも美しく捉えられて,そしてあまり綺麗ではない。
事実,「努力」(もう少し正確に言うならば「自助努力」だ)をすることを当然と考えていたからかもしれない。
問題は「結果」だ。
他人は必ず「結果」を求める。
経済学的合理性を追求するならば「結果」という言葉はとても甘美な響きを伴う。
当然のことなのだろう。
結果の出せない努力を認める人間が自分の周りにいない限り「努力」は「結果」を出した源のひとつにすぎない。
しかし,残念なことに世の中の大多数(だと私は思っているのだが)は,その多大な犠牲を伴う「努力」の先に良い「結果」を伴っていないことが多い。
いや,他人から見て「良い」と本人の思う「良い」は違うのだ。
おそらく本人の問題だけではないだろうし,そこは実はかなり小さいことなのではないかとさえ思える。