2011-08-05

http://anond.hatelabo.jp/20110804234623

私の周りでも特に若い年齢の男性だと「嫁」に含まれる差別性についてまったく知らない人もいたりするので、今は「もともと差別的な意味合いがあったことが忘れ去られて一般用語として使われつつある」フェーズかもしれない。

けれど、知らずに使っていれば、あるいは「言葉狩りに対抗するために敢えて」使っていれば問題ないのだろうか?

たとえば「バカだのチョンだの」という言葉。原義ではこの「チョン」朝鮮人のことを指している訳ではないことになっているけど、「チョン」という言葉朝鮮人に対する蔑称として使う人たちが増えたせいで今はこの表現自体使うのは自粛した方がいいという類のものになっている。

いわゆる「言葉狩り」に反対する人なら「原義は違うのだから使用を控えるのは間違いだ」と考えて敢えてこの言葉を使ったりするのだろうけど、その行為と、意図的に蔑称として使用している人がそれを非難されたときに「原義は違うのだから使用を控えるのは間違いだ」と言い訳する行為と、果たしてそんなに容易に見分けはつくだろうか?

むしろ蔑称として使用する側がその揺らぎを利用して「差別と思う方が差別しているんだ」という被差別側に責任を被せる論法を使うのもよくある光景である

そんな色のついた言葉を敢えて使い続ける意義はなんだろうか。

そもそも「言葉狩り」という言い方をするが、差別事象告発の一環として蔑称に対して抗議をするのも被差別側の当然の権利である

それに対して指摘された言葉を使わないようにするというのは、「私は差別には加担しません」という意思表示となるのは確かである

そうやって多くの良識ある人たちが言葉を切り替え、その蔑称言葉を使うのは少数の差別主義者たちだけという状況になれば、自分マジョリティから心置きなくマイノリティ差別できると思っている人たちは認識を改めざるを得なくなるのではないだろうか。

言葉の問題でなく使用している人の問題なので言葉を制限したって意味がない」として使い続ける行為よりも、そうやって目に見える意思表示をするほうが、差別解消に繋がるのではないかと私は思う。

  • 色なんて簡単に付けられると思うんだけど. その結果が中韓なんかの一部に見られる日本排斥的思想でしょう? 彼らが「自分達を差別してきた国の言葉を今でも使い続けるなんて差別的...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん