不死や不老や不病を目指す科学はどんな世界を切り開こうとしているのか。
恐ろしい考えが浮かんだ。まさか、科学は「認識できる世界」を塀で囲い、そこから人間を出さないように閉じ込めようとしているのではないか。
死ぬ、ということは科学では絶対に解明出来ない。だから、科学は病的に死を遠ざけようとしている。
それが不死や不老や不病だ。これらを突き詰めていくと、人間は死から解放される代わりに生に縛り付けられることになる。死ぬことが許されなくなる。
かつて死とは日常に当たり前のように存在していた。それは不可解なものでありながら、絶対的なものであった。しかし、目に見えるものしか扱えない科学は死を認められない。死体は見えるが死んでどこかにいなくなった精神と呼べる何かは決して見えない。
死を病院に閉じ込めてからも、見えない死がなくなるはずはなく、たどり着いたのは人間を「死なせない」ということではなかったのか。
科学に洗脳された人間は、「死ぬことが出来ない」を「死ななくて済む」に置き換え、素晴らしいことであるかのように錯覚し続けてきた。
しかし生の世界に縛り付けられることが本当に幸せなのか。人間は死から逃げ続け、だが一体この世で何をしているのか。何もしていないのではないか?
科学技術は発達し続けても、人間は幸せにはならない。時間を圧縮し続けてもやることが増えるだけ、娯楽が世界に溢れても、それは一時の気休めでしかない。生活が便利になればなるほど、人は何も考えなくなる。生活とは人間が生きるための生命維持活動に過ぎないからだ。このまま発展させ続ければ、人間は生きているんか死んでいるのかよくわからない状態になるだろう。生命維持があまりに快適に、そして自動的に行われる未来社会において、一体人間は何をしているのか。不死や不老などなくても、その時には既に人間は「生きていながら死んでいる」状態になってしまっているのかも。中間に永遠に閉じ込められる存在。恐ろしいことではないのか?