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はてなキーワード: 就職氷河期とは

2007-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20070310014621

77生まれで就職氷河期学生で乗り切りDをとってポスドクしているおれの勝ち負けは微妙

この現実をみるとむごいなと思う

http://anond.hatelabo.jp/20070309234905

翌年から新入社員募集が打ち切られ、数年以上下っ端扱いを受ける。

新入社員でまともな会社に入るチャンスすらなかった世代も辛いが、この世代もつらいなと思う。

でも73世代はまだまともだとおもうんだ。

この世代をずっとケツにひいてたバブルの残り香世代びの30代はどうあつかっていいのか分からない。

というより、73は就職氷河期開始ぐらいの世代じゃないの?

かくいう俺は76世代

受験からなにから人が大勢いるので全てが狭い門だった

就職時はそもそも大手の募集が無かった

零細企業に入るという選択肢大卒にも広がった

新入社員教育などないまま実戦配備

・大手の現場に配備されたすこし上の世代と仕事をし酷い目にあう

・やっていくうちに零細社長の元についていくのが耐えられなくなり独立 ← 今ここ。

ま、一番哀れなのは、45歳ぐらいになってから会社からほおり出される世代かもしれないね。

若いうちの苦労はまだなんとでもなる。。

2007-03-09

http://anond.hatelabo.jp/20070309144239

バブル直撃世代の使えなさは異常。激しく同意。

35よりもうちょい上ぐらいの世代ね。

今33あたりから就職氷河期になってるので急に使える人(というか人の話しに耳をかたむけてくれる人)も多い。

2007-02-02

私の努力が足りないのか

今の仕事について、10ヶ月程度たつが、いまだにポカミスをやらかす。

今の会社では、商品の受注やそれにともなう事務をやっている。

毎日の仕事はルーティンワークで、同じ時間に同じ方法で同じ仕事をする。例外はほとんどないので、仕事の計画を自分でたてる必要がなく(個別の目標はあるが)、そういう意味では気楽。

ただ、例外の仕事で多いが、ルーティンワークのなかでも時折、「気をつけるのを忘れてうっかりミス」とか「細部まで気が回らない」とかでポカをやらかす。

全部いちいち細かい事まで「チェックリスト」を作ってみたりもするが、それでもまだ足りないということなのか。

以前の仕事でも「気が回らない人」という評価をもらったことがある。目の前の事しか気づかなくて、「その周辺」に気を配れない、という面は正直あると思う。思い込みが激しいというか。

学校勉強は、それなりにできた(田舎だからたいしたことないけど)。

大学、それとその後の社会人生活(といっても、就職氷河期だった事もありフリーター)にはいってから、自分の能力が低いんじゃないかと思うようになった。

自分の能力が低いんだ、もっと頑張らなきゃ、と思うけど、いつまでもちゃんとできないと、やっぱり凹む。

能力が低いのではなく、種類があっていないのだ、という所へ逃げこみたくなる時もある。たとえば、職人さんだったら、自分にあっているのかな、とか。一つの事を極める作業・・・だけじゃないのはわかってるけど。

やっぱりもっともっと頑張らないといけない、っていうことなのだろうか・・・

2007-02-01

私の大学

http://anond.hatelabo.jp/20070131010646に触発されて、私も大学の事を書いてみた。超長文な上完全な独り言なので注意。

元々大学に入る気はあまりなかったのだけれど、一応は進学校の端くれの高校に進学した。その高校の図書室で一冊の本出会い大学に行って専門分野を勉強したいと心から思った。しかし両親にはこう言われた。

大学の学費は入学金くらいしか出してやれない。仕送りもしてやれない。お前を予備校にやるお金もない。それでもいいなら好きにしなさい」

両親は女の私が大学に進学する事は考えていなかった。だから大学の分の学費を積み立てる事はしていなかったのだ。

それでも大学に進むことにした。地元国立大ならバイトをすれば何とかなると思ったのだ。就職の世話なんて一切してくれない高校でもあったし。しかし地元国立大は難しかった。その地元国立大以外は一切受けなかったため、あっという間に浪人生になった。

予備校に入るお金はなかったが、一人での勉強には限界を感じていた。そのため、アルバイトをしながら週に一度だけ予備校の個人指導を受けにいった。バイト代は右から左へ個人指導の月謝へと消えていった。

日中はアルバイトをしているため、勉強必然的に夜遅くまでになる。そのことで両親にいろいろ言われた。

父は、

「そんな夜遅くまで勉強しなきゃ受かんないような大学だったら行くのはやめろ」

と言った。

母は、

「あんたみたいに昼間ぶらぶらして夜になってあわてて勉強してるのが受かる分けない」

と言った。

好きにしろとは言っていても両親は進学に反対なのが嫌というほどわかった。そんな両親への不信の念は募っていった。私が大学合格するなどとはかけらも思っていなさそうな両親が唯一約束してくれた入学金も、もし嘘だったらどうしよう?そんな妄想にかられ、勉強が進まないことも一度や二度ではなかった。

また、この浪人期間にはいろいろと考えさせられることがあった。まず、このまま勉強を続けても地元国立大に受かるぐらいに成績を引き上げるのは厳しいということ。志望先の学部の就職率が低いこと。当時は就職氷河期であり、高卒就職しようとした中学時代の友人たちは、半数以上がフリーターになったこと。両親からの支援なしで大学に通うということは、思ったよりも厳しそうだということ。もう一年浪人することは無理だろうということ。

それらのことを考えて、結局初志を曲げて志望校、志望学部ともに変更をした。志望校学力的に確実だと思われ、そして経済的にも何とかなりそうな国立大の夜間に、志望学部は就職氷河期の当時ですら100%近い就職率を誇っていた学部にした。この時点で大学に行くこと自体が目的になってしまっていたのは間違いない。

そしてセンターも終わり二次試験。母は私を送り出しながらこう言った。

「全力でテストを受けてきなさい。あんたなんてどうせ受かんないだろうけど、全力を出さなきゃ採点してくれる先生に失礼なんだからね」

母はツンデレ流行を先取りしていたのだろうか?しかしこの言葉を聞いた時私は母を恨んだ。

二次試験も無事に終わり、合格発表の日。少し遅れて発表を見に行ったため、もう人もいなくなり閑散とした掲示板の前で、自分の受験番号を見つけた。感動は無かった。

そして大学に入学した。両親もさすがに入学金のことでは嘘をついていなかった。女だてらに家賃3万円台の共同風呂アパート引っ越し(私以外の入居者はみんな男性だ)、私の新生活は始まった。アルバイトも安定して月10万は稼げ、確実に授業に出れるいいバイトが運良く見つかった(しかも仕事内容は厳しくない)。新生活奨学金が入るまでは金銭的に厳しかったが、月5万の奨学金が入るようになってからは思った以上に懐に余裕ができた。学費の積み立て3万円、家賃3万とちょっとで残りは生活費として特に考えなく使っても余裕があった。

また、実家を離れたことで心情にも大きな変化があった。毎日続く母からの嫌みを聞かずに済む生活は、思った以上に開放感を与えてくれた。それと同時に、離れて感じる親の恩というものも無いではなかった。さらにそれに加え、同じ夜間の同級生たちですら親からの仕送りが一切無い人など滅多にいないという現実が、私の両親への愛憎をより複雑にさせた。年二回の帰省以外では、殆ど両親との連絡は取らなかった。

そうした思いを噛み締めながらも真面目に勉学に励み無事卒業して就職した、となったら美談だっただろう。しかしそうはならなかった。

まず、下手にお金が余ったため遊んでしまった。ギャンブルにこそハマりはしなかったが、ゲームをやったり漫画を買いあさったり、勉強をしないには十分な遊びだった。そのため授業についていけずにいくつも単位を落とした。極めつけに、就活研究室配属という大きなイベントを目前にしてメンヘラになった。メンヘラになったきっかけは定かではないが、とにかく自分を貶めるようになった。アパートに一人でいるときは、とにかく自分に向けて「死ね、お前なんてくずだ」などという罵声を独り言で浴びせ続け、授業に出ては脳内で自分を罵倒し続け泣いてトイレに駆け込んだりと、相当にめちゃくちゃだった。成績はますます悪くなり、就活も上手く行かず、ついに留年した。なんとか決まった研究室もチャラになった。そして私は学内精神科医の先生を訪ねた。

精神科医の先生は、私には服薬治療が必要だが、それを始めるには両親の許可が必要になる、両親に連絡をさせてほしいと言った。私はそれが嫌だった。両親に、ほら、やっぱりお前はだめだった、と思われるのが心の底から嫌だった。しかしそうしているうちにも、妄想にかられ注意が散漫になり交通事故に遭いかけたことや、毎日のように自殺を考え、そして自分で自分を罵倒し続ける生活に耐えられなくなり、連絡はまだしも話の分かる父にするということを条件に精神科医の先生治療を頼んだ。

そしてその日の夜、先生からの連絡を受けた父から電話がかかってきた。電話をとるのを少しためらった。怒られるだろうか?呆れられるだろうか?問いつめられるだろうか?そんな嫌な想像を膨らませながら電話をとった。

ーー○○、父さんだ。大丈夫か?大変だったな。

ーー先生は治ると言ってくださっているのだから、しっかり病気を治しなさい。

ーー大丈夫だよ

父は静かに、私が全く想像もしていなかった言葉をかけてくれた。涙でのどがつまり、ただうなづく事しか出来なかった。

ーー母さんはストレスたまったらカラオケにでも行きなさいと言っているよ

それはもうやった、と小さな声で答えた。

ーー何かあったらいつでも連絡してくれ。父さんはこんなんだけど父さんなんだから

父は、そう会話を結んだ。

私はその日一晩泣き続けた。

その日以来、折に触れて父と連絡を取り合うようになった。こんな他愛もなく当たり前の事が今まで出来なかったのはなんでだろうと心底思った。留年して奨学金が出なくなる5年時の学費は父が出してくれると約束してくれた。

そして今、再び研究室配属や就活を目の前にするようになった。しかし一年前の私とは違い、今の私は非常に落ち着いている。自分は地面に足をついている、それを信じる事が出来る。それはきっと薬のお陰だけではなく、大学に入る前から私の中でずっとくすぶり続けてきた醜い何かが治まったお陰だ。結果論ではあるが、メンヘラになり留年した事で私は親への信頼を取り戻す事が出来た。メンヘラになった事は不幸であったと同時に天佑でもあった。

これからしっかり就活をして卒論も書いて卒業して就職して、そしてボーナスでも入ったら両親を連れて旅行に行こうか?一年前だったら思いもしなかった様な事を今はささやか目標にしている。

それとどうでもいい蛇足ではあるが、うちの大学の保健センターは薬をただで処方してくれる。国立だからなのかどうかは分からないけれど、大学に心底感謝している。

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