はてなキーワード: 戦記物とは
アニメ「ストライクウィッチーズ」の登場人物、主人公の上官であった
扶桑皇国海軍少佐、坂本美緒は、番組後半、その能力の大半を失ってしまう。
主人公の力が終盤に向けて増大していく、異能戦記ものの物語では、
比較的珍しいことだと思う。
「友情、努力、勝利」が駆動する物語世界では、主人公の能力は、
物語の進行とともに大きくなっていく。主人公は怪我をしたり、時には何かを
失ってしまうけれど、代償として、それを補ってあまりあるぐらいの成長を得る。
物語の冒頭、能力で主人公を圧倒していたライバルや上官は、中盤以降、
主人公に勝利する機会はほとんど失われてしまう。
ライバルは主人公に勝てなくなってしまうけれど、彼らにはまだ、
「普通の人が届く限界」を読者に示す仕事が残っているから、主人公の成長と
ともに、彼らにもまた、彼らなりのペースで成長が約束される。
人間世界で30年ぐらいの時間軸で作られた物語だと、年老いた主人公が、
自分の体力の限界に舌打ちする場面が、ときどき見られる。主人公が最初から老境に入っていると、
そうした人達は、低下した体力の代わりに知恵を得ていることが多くて、物語もまた、
体力の限界が能力の決定的な差となって現れる状況を回避するから、主人公の能力低下は、
たいていの場合、読者から隠蔽される。
「ストライクウィッチーズ」の中盤以降、主人公の上官であった坂本は、20歳という年齢を迎えて、
魔力が低下してしまう。能力を決定するパラメーターがシンプルな、時間軸の短い物語世界では、
「魔力の低下」は、そのまま能力の低下となって、坂本の立場を劣化させる。
力が衰えてしまえば、その登場人物は、物語の展開とともに「劣化」していく。
あの番組は、パンツ以外にもいろんなものを隠さず見せていて、面白い。
人は老化するし、能力はいつか劣化する。劣化の代償として得たものが、「栄光」だとか
「成功」であったとしても、その登場人物は、果たして幸福なんだろうか?
手塚治虫の漫画「どろろ」の主人公「百鬼丸」は、妖怪を倒すたびに、能力が低下する。
生まれたときには手足や目を持っていなかった主人公は、勝利するたびに手足を取り戻して、
普通の人へと近づいていく代わり、能力は「普通の人」へと近づいてしまう。
勇者であった人は、低下した能力の対価として、いったい何を求めるべきなのか。
「どろろ」の物語は、恐らくはそんなことを語ろうとしたのだろうけれど、物語は途中で終了してしまった。
あるいは手塚御大にも、その答えは出せなかったのかもしれない。
「普通の人」へと近づいていく主人公と対峙する敵は、物語が終盤に近づくにつれて、
どんどん強くなっていく。「普通」になった主人公が勝ってしまえば、主人公が失った
能力の価値が下がってしまうし、主人公が負けるようなことがあれば、
「世の中やっぱり能力が全て」なんて、物語には救いが無くなってしまう。
「21世紀は再び○○の時代に」なんて見出しを付けるベテランがいる。
こんな人達は要するに、自らの人生に、「劣化」の代償として足る何かを見いだすことが出来なかったんだろうなと思う。
実世界で、老化の問題を前向きにとらえた本というのは、たいていは「老害上等」なんて立ち位置。
「よかった昔」を手放しで賛美したい人達に思考停止を販売するのは、きっと幸せな商売なんだろう。
劣化の代償に「人脈」を得た人は、老害となって若者に立ちはだかる。
対価として愛を得た人はアルジャーノンになって、寝たきり老人となって介護される未来に臨む。
「普通」を目指して手足を得た主人公は、ラストまで走りきれずに、物語は途中で終わった。
小林源文氏が描く戦記物には、ほとんど「おじいさん」になった退役軍人が登場して、
昔語りを始める。あの世界での「劣化した勇者」は、新兵に対峙して、「実戦」の
経験を語り伝えるためにそこに在る。あれは上手な劣化表現だなと思う。
小林の戦記ものでは、かつて勇者だった退役軍人は、劣化の代償として、「思い出」を選ぶ。
勇者は能力を手放して、図書目録となり、若い人達に自らの経験を語り伝え、次の世代を育てる。
ベテランが若者のインデックスであり続けたいのならば、成功体験を語ってはいけない。
成功体験は、成功してみせることでしか、その正しさを証明できない。
成功体験で自らを語る「劣化した勇者」は、経験の正しさを証明するためには「動く」必要があって、
そんな元勇者はだから必然的に老害となって、若手の前に、能力の不足を晒してしまう。
インデックスとしての在りようを選んだ「劣化した勇者」は、だから自ら犯してきた失敗と、
新しい状況に対峙して、今までのやりかたとは違う何かを受け入れて、自ら痛み、失敗し、
変容してきた経験を語る義務がある。
「こうしたら上手くいった」を語り出した元勇者は、もはや単なる老害でしかないことを理解しなくてはならない。
これから先、主人公としてその能力を増して行くであろう宮藤や迫水を横目に、
坂本や穴拭らベテランは、物語世界の約束事として、「劣化した勇者」として、主人公に対峙する。
ベテランが、そのまんま理想の上司として振る舞えば、主人公達は無敵化して、物語は回らなくなるし、
ベテランが「老害」として立ちはだかった姿は醜くて、なんだかあまり見たくないような気がする。
このアニメーションに続編があるのなら、かつて勇者であったベテランを描写してほしいなと思う。
能力が劣化した代償として、勇者は果たして何を求めるべきなのか。成長して、能力を高めた
主人公と並んで、能力を手放したその人が、その時どんなものを得ていれば、能力を失ってもなお、
登場人物としての魅力を失わずに、その場に立ち続けることが出来るのか。
タメ年増田です。
ノストラダムスを間に受けてる人は、結構いたよね。俺は斜に構えてたけど。
あとソ連云々は、もう物心ついて、ある程度ニュースの言ってることも分かる様になった頃には
既にゴルバチョフが登場してて、ペレストロイカやグラスノスチを始めていて
冷戦構造は確かにそこにあったけど、軍縮交渉(STARTだかSALTだか)も始まったりして
割と楽観的に世界を見てたけどなぁ。ソ連が敵として登場するスパイ物や仮想戦記物を物語として楽しみながら。
キューバ危機を直接知ってる世代じゃないしね。あの時はきっと皆ビビってたんだろうけど。
んで湾岸戦争が中学のときだったかなぁ。あのときは単純にイラクが悪!アメリカが善!と思ってたかも。
そして多国籍軍が組織されたことに、なんか希望を持った。あぁ世界は悪に対して団結できるんだ、みたいな。
おめでたいよねぇ…
記事で問題になっているのは著作権だが、それには触れない。
但し、プロレタリア革命はブルジョワ革命が完遂した後に起こる、或いは現在の自由主義が歴史の終焉であると言った話題は、手に余る。
同じ20世紀で、しかも大衆芸能について、一定レベル以上の成熟と大衆性を獲得した(だから、純文学や前衛藝術を除く)ジャンルでは似たような進化を辿るのではないか、という話。
>>最後に取り上げる例は、ジョージ・スティーブンスの古典的西部劇『シェーン』である。周知のごとく、西部劇というジャンルは四〇年代の終わりに最初の深刻な危機を迎えた。純粋で単純な西部劇は、いかにも作り物で単純な繰り返しだ、という印象を与えるようになった。西部劇の公式は使い尽くされたようにみえた。作家たちは、他のジャンルの要素を西部劇に盛り込むことによって、この危機に対処した。かくして出来上がったのが、フィルム・ノワール的西部劇(ラオール・ウォルシュ『追跡』。この映画は、フィルム・ノワールの暗い世界を西部劇に移植するというほとんど不可能な仕事をなしとげた)、ミュージカル・コメディ的西部劇(『略奪された七人の花嫁』)、心理的西部劇(グレゴリー・ペックの『ガン・ファイター』)、歴史叙事的西部劇(『シマロン』のリメイク)などである。一九五〇年代に、アンドレ・バザンはこの新しい「反省的」ジャンルをメタ西部劇と命名した。
この「メタ西部劇」は『西部劇』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/西部劇そのもの/である。いいかえると、この映画は、西部劇の世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだ西部劇である。『シェーン』が生み出す効果を説明するには、ふたたび視界の機能に言及しなければならない。つまり、常識的なレベルに留まっているかぎり、すなわち視線という次元を導入しないかぎり、単純で理解できる問いが生じる──もしこの西部劇の「メタ」の次元が西部劇だとしたら、二つのレベルの間の距離はどう説明されるのか。どうしてメタ西部劇は西部劇そのものとぴったり重ならないのか。どうして純粋で単純な西部劇はできないのか。答えはこうだ──構造的必然性によって、『シェーン』はメタ西部劇のコンテクストに属している。<<
(スラヴォイ・ジジェク著 鈴木晶訳 斜めから見る。青土社 P121
猫も杓子もジジュクを使いまわしている昨近、またか!と思われる方も多いだろう。またか、である。
アンドレ・バザンの≪超西部劇≫(sur-western)は、時間=歴史的な対象、一九四〇年前後の古典主義に対する一九四四年以後の「進化した」西部劇を指し示す。対して、ジジュク≪メタ西部劇≫は、空間=図式的な観念である。それは「メタ」の次元とそれ以外の次元からなる「二段の棚」であり、話を進める上で好都合だったので、持ってきた。
日本の場合、過去の例で思い当たるのは、時代劇だが、最近では、何といっても、ロボット・アニメかな、と。(時代劇については、ここでは触れない)
名前はいちいち挙げないが、歴史叙事的ロボット・アニメ(西部劇では実際の過去の出来事だが、ロボットがポピュラーな時代は未だ来ないので、未来、或いは仮想世界が舞台になる戦記物)、コメディ的ロボット・アニメ、(破綻も含む)教養小説的ロボット・アニメ、ファンタジー的ロボット・アニメ、ラブストリー的ロボット・アニメ、その他、いろいろ。
では、”その「ロボット・アニメ」は『ロボット・アニメ』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/ロボット・アニメそのもの/であるような作品、ロボット・アニメの世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだロボット・アニメ”、西部劇で言えば「シェーン」に該当するロボット・アニメは存在するだろうか?