容姿を数値化して差別を可視化する、といった手順自体にモラルの問題があるので
すると、差別的な傾向があるかどうかはそれを公言しなければ問題にならない事が多いので、ある文脈では差別していない、という建付けで差別をすると得をする、というケースが増えそう
このとき、容姿が優れないことで損をする人にとって、建前上容姿による差別がない世界とある世界はどう違って見えるんだろうか
例えばお見合いで容姿を理由に断られるときに、差別的な人間から容姿が原因であると明言されるのと、差別的ではない人間から現在差別が許容されている要素、例えば性格の悪さなどを建前で伝えられるのとどちらが良い世界なんだろうか、といったことを考えている