人間は強くなければ生きられないというどうしようもない自己責任論や事実にあらがえないのならならそれはマチズモとどう違うのだろう。
弱くてもせめてしたたかに生きるか、社会から離れても飯を食えるとかそういう路線にいけないならどうすればいいのか。
男三人集まれば比べてしまったり、パートナーの有無で劣等感を持ったり、他人と上下関係を作ろうとする人が目立ってしまう。
だから社会運動として男性学や男らしさを越えるというのはうまくいかなかったのではないか。
隠者や漂泊はその代わり男性であることの一種のどこでもいられることで男らしさから離れられることではなかったのか。
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