横山光輝三国志読んでる時疑問だったんだけど、
伊籍は荊州陣営の重臣で馬良に至っては軍参謀として有能だったはず。
まあ確かに関羽は名士嫌いだったから、士仁や麋芳に裏切られてるんだけど、
一応伊籍とか馬良とかはそんな名士の中でも指折りのまともな人材なはずで、
孔明とのパイプ役でもあるから孔明が益州に向かう時にわざわざ残してきた人材だったのに
その二人を行かせるのはどうなんだろうと。
まさか関羽はその二人が居なくても戦況を打破できるとか思ってたのか
それにしても廖化は麦城に落ちのびた段階で救援要請に赴いてて先に上庸で劉封らに断られた後、成都に向かってるはずで
距離的な問題を考えると先に伊籍たちが到着しててもおかしくないのに、割とすぐ後に廖化も到着してて
伊籍たちがそんなちんたらゆっくり行軍してたとは思われないのに何でこんなに時間が掛かったのか、横山光輝は描いてて疑問に思わなかったのか
もし俺が関羽ならどちらか一方は置いて幕僚長にでもして荊州奪還に行ってたと思うし、それが出来なくても参謀役として話を聞いてもらってたな。
でも関羽が連れてったのは王甫と関平(と周倉)でこの時点でほぼ詰んでるよなって関羽思わなかったのかよと。
伊籍か馬良がいれば荊州内に隠れ蓑になるところへ案内できたかもしれなかったのに、そう考えると二人を成都に行かせたのは本当にアホだよな。
本義(史実)ではなく演義(創作)をベースにしてるからとか?