2014-10-11

アニメの「○○節」ってのがよくわからない

最近見たのは富野節ってやつだけど。

いや、これが小説だったらわりとわかるよ。ドストエフスキー小説はいかにもドストエフスキーだし、ジャン・ジュネ小説はいかにもジャン・ジュネだし、コーマック・マッカーシー小説はいかにもコーマック・マッカーシーだ。

でもアニメになると意味不明アニメってひとりで作るものじゃないよね。最近虚淵玄かいうのが出てきて、虚淵玄には虚淵玄作風があるみたいな乗りだけど、虚淵玄ってただの脚本家だよね。アニメにおいて重要なのは脚本じゃなくて絵コンテだし、作画だと思うんだけど。この辺意味がわからない。なにが虚淵っぽいのかが。

富野節とやらも同じ。富野さんがひとりで作ってるわけじゃないのに、ガノタ富野富野って絶賛する。本当にそうなのだろうか。富野さんがすべての作画担当してればそういってもいいかもしれないけど、アニメってひとりで作るものじゃないよね。

前もここで言ったけど、ぼくは川崎逸朗さんのアニメが大好き。あそこまで行けば逸朗節ってのはあるかもしれない。だけど、富野さんとか正直もう終わった人だし、虚淵玄にいたってはただの三流脚本家だし、逸朗さまほどの個性は感じないなあ。

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