いや、これが小説だったらわりとわかるよ。ドストエフスキーの小説はいかにもドストエフスキーだし、ジャン・ジュネの小説はいかにもジャン・ジュネだし、コーマック・マッカーシーの小説はいかにもコーマック・マッカーシーだ。
でもアニメになると意味不明。アニメってひとりで作るものじゃないよね。最近虚淵玄とかいうのが出てきて、虚淵玄には虚淵玄の作風があるみたいな乗りだけど、虚淵玄ってただの脚本家だよね。アニメにおいて重要なのは脚本じゃなくて絵コンテだし、作画だと思うんだけど。この辺意味がわからない。なにが虚淵っぽいのかが。
富野節とやらも同じ。富野さんがひとりで作ってるわけじゃないのに、ガノタは富野富野って絶賛する。本当にそうなのだろうか。富野さんがすべての作画を担当してればそういってもいいかもしれないけど、アニメってひとりで作るものじゃないよね。
前もここで言ったけど、ぼくは川崎逸朗さんのアニメが大好き。あそこまで行けば逸朗節ってのはあるかもしれない。だけど、富野さんとか正直もう終わった人だし、虚淵玄にいたってはただの三流脚本家だし、逸朗さまほどの個性は感じないなあ。
煽るにしたってもう少し真面目にやれよ。
ただの作画厨はすっこんでろ! トミノのあの作詞見ても あのトイレシーン見てもそのセリフ言えるのは作画しか見てないからじゃ!