前々から感じていた。この大学の学生には、高校時代の友人に備わっていた、あの慎重な自意識を見出すことができない。振舞われようとする動作を一度内側に引きとめ、発されようとする言葉とみずから問答を交わす自意識。内側に鏡をもっている精神。
精神が神経の糸を伸ばして身体をまさぐる。声と言葉のひびきを手がかりに。俺が同年代の人間に対して敬愛の念を覚えるとすれば、彼の手先から意識の内部をたどることのできるほどの真摯さがにじみ出ているときしかありえない。
俺は周りの学生の饒舌な身体の動きから思わず目を背けたくなる。動きはそのまま投げ出され、言葉は行き場を失う。宙吊りにされた言動が俺のいる講義室を演劇の舞台に仕立てる。それはおそろしく耐えがたいことだ。
慎重さをすべて投げ出し何も考えずに良い風に考える。
大学は学ぶ場所でしょうが。 何を期待しているのやら。 高校と大学は入試の仕組みが違うのだから高校と同じ人間が集まるわけじゃない。 高校はある程度同じ地域で同じ学力の人間...
それはただ大学の人に偏見を持っているだけじゃない? その自意識うんぬんは分からないけど、俺は大学1年の時「この大学にいる奴は笑いのセンスが一切ない。高校の奴らレベルのや...