名前なんてものに意味はない。あれは単なる記号だ。強いて言うとすれば、自らが属している領域と、その領域内での力量を表すことのできる道具であるということくらいだ。
その力量というものも、実質的な尺度とは言いがたい。単なるまやかしとも言えるし、自らがここにいると標榜する旗の色調の派手さ奇抜さを競っているだけなのかもしれない。
兎にも角にも、今現在名前と呼ばれているものにはそれほど重要な意味なんてものはない。
無論、両親や親類の願いや思いといったものは託されているだろう。だがそれだけだ。そういった願いや思いが、一体何になるというのだろう。
我々の多くはその名を知らない。他者のものも、自身のものも。誰も教えてくれないし、誰も見つけられない。だから知りようがないし、教えようがない。
それは、だからある意味ではないも同然のことなのかもしれない。誰にも理解されない、認知されない概念など、あってもなくても似たようなものだからだ。
けれど、ときどき僅かながらも真名に敏感な反応を示す者たちがいる。そのものの性質を朧気ながらも読み取り、適切な語彙でもって固定化しようと試みる者たちがいる。
彼らはおよそ無意識の内にそれらのことをやってのけるのだが、その呼び名が、あるいは渾名が他の名前よりもよっぽど正鵠を射ているので、小さく持て囃されたりする。
真名を知ることは、己を知ることの第一歩となりうる。故に人は、真名を知ろうと努力せねばならない。対外的な好奇心よりも、内向的な思慮分別を重視せねばならない。
そうでなければ壊れてしまう。