要は「おまえが言うな」と。そうやって、何か主張された時に、
たとえそれが正しい意見であっても、主張者の「資格」を問うことで、主張を棄却してしまう人って馬鹿だなと思う。
もちろん、「資格のない人間」が主張した場合は説得力に欠けるのだけど、
そんなことを言っても無益だということが分からないのかなあ?
「おまえが言うな」は言論弾圧の強力兵器。強力過ぎて誰も手がつけられなくなる。
なにやっててもすぐに飽きるんだけど、これなんとかならないかな…。
処女厨以外の人間に関わる問題としてきちんと説明されれば議論は違った形になると思うけど、
処女が手に入らないことに対しての個人的な不平不満には、あなたたちが意識を変えていくしか
ないでしょうっていう結論になるのが普通の流れだと思う。
ほえーはんぱねぇ…
戸愚呂の言っていることが間違っているだと
「おまんこ」と言ったらすぐに「お前は小学生か」と脊髄反射で返す人間がたくさんいる。
脊髄反射で返して揚げ足をとることで、「おまんこ」発言の本来の主旨から外れてしまい、会話の方向があさっての方向にねじ曲がってしまう。
これはあまり良くない社会の風潮ではないかと私は考えている。
「おまんこ」と言っても、いろんな「おまんこ」があるのだから、全ての「おまんこ」を否定してしまうのは、
あまり賢い大人の態度だとは言えないのではあるまいか?
言葉というのは、面白いもので、単語を聞いただけで特定の反応を誘発してしまうような側面がある。
であるから、「おまんこ」とくれば「小学生か」と脊髄反射してしまうのは、無理からむところもある。
しかしながら、人間は理性の生き物である。そういった感情的な反応をグッとこらえて、冷静に発言の主旨を読み取るのが人間としての完成された姿ではないのか?
例えば、男性諸君にとって、可愛らしい女性が恥じらいながら「ぉ・・・ぉ・・・・ぉま・・・んこ・・・」と言うのは興奮に値するものであるが、
人間というのはそういうふうに同じ単語でも言い方や状況に応じた的確な意味を繊細に読み取る能力があるものである。
もし、そのような人間としての素晴らしい能力を活用せず、「おまんこ」を全否定してしまうのなら、その人はもはや人間ではない。人にして人にあらず、である。
こういった考察を踏まえれば、明日学校の友人が「おまんこ」と言ってても、明日会社の同僚が「おまんこ」と言ってても、
これまでの愚かで下等な自分とは違って、高等な反応を返すことが出来るであろう。
そういうふうにして、1つ1つの言葉に対する反応を反省してこそ、人は大人になるのだ。
言葉とは奥の深いものである。
たかが「おまんこ」、されど「おまんこ」。「おまんこ」を舐めてかからずに、「おまんこ」をよーく味わってしゃぶり尽くさねばならない。
自己責任論って結局、「力は正義、弱いものが強いものに虐げられるのは仕方がない」っていうリベラリズムなわけじゃん。
そういうマッチョイズムを信仰する「傷つけられるのがいやなら見るな」系の人たちが、自分たちより強大な力(公権力)から、「(弾圧されるのが)嫌なら見るな」と抑圧がきた途端「抑圧いくない」とか言い始めるのってすげーダブスタに見える。
抑圧されてる側が、力さえあれば抑圧してもいいという勢力に対抗する手段としてもっと強大な力に頼ろうとするのはすごく理にかなったことじゃないの?
普段から被抑圧者の権利に敏感で保護しようとしてる人たちが自分たちへの規制にも抵抗するなら分かるけど、自分は他人を抑圧しまくってるけど自分への抑圧は嫌だって何の冗談だと思う。
そういう人たちはそのダブスタに気づいてんのかな?
それとも自分の最大利益を考えたら自分の他人への抑圧は肯定して他人からの自分への抑圧は否定するのが当たり前!とか開き直ってんのかな。
その個人的な不平不満を社会が取り組むべき問題として提起できていないから、
客観的な印象として処女厨が喚き散らしているだけのように見られてしまうのだと思う。
それがあなたには歪んだものの見方に見えるのかもしれないけど。
根本的な考えが間違ってるという指摘が論点ずらしっていうんなら論点ずらしでいいよ。
単なる思いつきである(と、最初に逃げておく)。
よくある言説だ。「日本の街並みは汚い、欧米の街並みは美しい」という言説。
2chのネトウヨもそれは認めざるを得ないようだ。いくら「電柱の趣が……」と言ったところで、日本の街並みが雑多であることは否定できない。
さらに言えば、東アジアの街並みは日本に似ているという話は良く聞く。
平たく言えば、何か安心する雑多な街並み。
単なる印象論だが、それは、ウェブデザインにも通じるところはないだろうか。
例えば、楽天に出店している店舗のページを見ると、雑多な印象を受ける。
あざといとも言える広告のようなページだ。
印象論ということを前提に呼んでいただきたいのだが、その点、欧米のオンラインストアのページは洗練されたスマートなデザインの様な印象を受ける。もちろん、欧米でもアダルトサイトは、例のごとく、迷宮のように雑多なデザインの所が多いけれども。
それで、街並みとウェブサイトが類似している点がないかな、というのが私の思いつきだ。さらに思いつきを続けると、日本の街並みとウェブサイトが「雑多」にならざるを得ないのは、「漢字」の存在が大きいような気もする。漢字は象形文字的側面が大きいので、(アルファベットに比べて)表現としてダイレクトなのだ。例えば、日本語に「ひらがな」しかなかったのならば、日本でも欧米のようにスマートなデザインが嗜好されていた可能性もあると思う(もっとも、基本、ハングルだけの韓国の街並みは雑多なようだが)
「雑多」なページというのは、ある意味で下品なんだろうけれど、逆に安心できたり、(ドンキホーテの商品の並びように)ワクワク出来たりするデザインである。名前の通り、「雑多」だということは、様々な価値観が入り交じっているということでもあり、許容できる価値観の幅が広いということだ。多分、そこ人に安心感を見出すのだろうし、頭の悪さという意味での敷居の低さを感じるのだろうと思う。
反対に、スマートな美しいデザインのサイトで要求されるのは、「何をどう割り切るか」というセンスであり、その結果としてのシンプルとユーモアであろうと思う。グーグルやアップルはこちら側の代表例だ。こちらも主に人類の普遍性という意味で敷居が低い。
私は個人的には「万人に共通する絶対的価値観」という物はないと思っている。
ある個人として信奉する「絶対的価値観」が真実に近かったとするならば、必ず、それと反対側の価値観も真実に近いと思っている。
だから、両方の価値観を知らないと、世界全体を俯瞰することは出来ないのではないかと思う。
(もちろん、これも一つの価値観なのだが)
もし私の考えが合っているならば、日本がインターネットでグーグルに代表される米国IT業界に対抗するには、「雑多性」を追求するべきなのかも知れない。
実際、グーグルは「インターネットの情報を整理して見通しを良くしよう」としているように見えるが、最近、元気なGREEなりmixiなりモバゲーなりは、「(いろいろなサービスがごちゃ混ぜになっている、デザインが野暮ったい等の)雑多性」もそうだが、「(グーグルの検索に引っかからない)SNSという仕組みでネットの見通しを悪くし、多様な価値観を許容出来るような方向性」を目指しているように見える(大体、検索の性能が良すぎるから、自分と意見の違う人間を見つけやすいのであって、争いが起きやすいのであって、殺伐としやすいのである)。
すでにウェブ上に落ちているアイディアかも知れないし、そんなに大した話でもないのだが、何か日本におけるウェブサービスの収益化のヒントになると嬉しい。まあ、増田に書いたところでどれだけの業界人が見てくれるかは分からないけど(自分のブログに書いても誰も見ないだろうしなあw)。
ただ今いるTwitterユーザーにとってそれが心地よく思えないだけの話で。
お砂場に知らないお兄ちゃんが来ちゃやだって泣いてんだろ。
脚本家個人については叩かれまくったから反発してるだけだろう。これでTwitterから逃げたら
というだろうか。
そもそも他人や社会を責めてる癖に自分を顧みない姿勢に誰が惹かれるというんだろうか…
それで世直しとか笑わせる。世直しの前にせめて自分をまともにしてからだろ。。とかいつも思うわ。