ストーキング止めてやるよ。
まさかストーキングしてる事をはっきり認めてくれるとは思わなかった。
意外と少しは罪悪感があったのね。
そのつもりなのはよくわかってる。そういう人達だもんね。
病院行ってお前がここに書いてるようなことを先生に全部話して、先生の言うことを真面目に聞いたなら、ストーキング止めてやるよ。
なんかもう真面目に怒る元気もないわ。疲れた。
はいはい。あなた達は社会正義とか国益のために頑張ってる偉い人達ですよ。
いじめをしても相手のせいにしておけば許されます。
イジメをしてるヤツらは正常で、されてる俺が狂ってる。あはははははははははははははははははははははははははははは
http://blog.tatsuru.com/2009/07/16_1121.php
これを呼んで流石にひどいだろと思ったので。
そういう人間でも、どこかに帰属していない限り、生きてゆくことは苦しい。
その場合、「平和主義者になる」というのはひとつの選択肢である。
世界的な政治単位に帰属することについては要求される資格は何もない。
そして、世界市民という巨大な集団に帰属する代償として、平和主義者に求められるものは何もないのである。
ゼロ。
平和主義者にはどのような義務もない。
好きなときに、好きな場所で、好きな人間を相手に、気が向いたら、平和主義者になることができる。
私は平和主義者だ。私は世界市民だ。私は人類全体の利益をあらゆるものに優先させる。人類の利益を脅かすもの、無辜の市民の平和な生活を踏みにじるものを私は許さない。
などということをぺらぺら言い立てることができる。
その代償として要求されるものは、繰り返し言うが、ゼロである。
真正の平和主義者であることを証明するために「今、ここ」でできることは何もないからである。
平和主義者は国際関係について熟知している必要がない(アメリカ大統領の名前を知らなくてもノープロブレムである)、もちろん外交内政についても、歴史についても(政治思想史についてさえ)、無知であることは平和主義者の名乗りにいささかも抵触しない。
むしろ、そのような外形的知識の裏づけなしに「いきなり平和主義者」でありうることの動機の純正さが尊ばれる。
一方、平和主義者はしばしば「自分が信じる規範」は「すべての日本人が当然に共有せねばならないこと」であるという不当前提を採用しているので、論争においてほとんど無敵である。
彼らの論争術上のきわだった特徴は、論理的な帰結を無視して自分の個人的理想を現実における施策に直結させることである(「ダメなものはダメ」とか「人殺しは悪いことでしょ」「誠意を持って話し合えばどんな人とでも理解し合える」とか)。
そして、「はぁ、そうですか」と応じると、「だから憲法第9条は守らなくちゃいけない」「日本に軍隊なんか要らない」「無防備都市宣言に賛成してくれるわよね」という結論にいきなり導かれるのである。
これはきわめて知的負荷の少ない「論争」術であるので、好む人が多いが、合意形成や多数派形成のためには何の役にも立たない。
もう一つ大きな特徴は、平和主義者にはその立場を証明するための直接行動が要求されないということである。
家庭や会社でそれなりの敬意を得るためには、具体的な行動によって集団に貢献することが要求されるが、平和主義者は「領土問題」とか「外交問題」とか「防衛計画」とか、ほんらい政府が専管する事項を問題にしているので、個人としてはできることが何もないのである。
平和主義者は「人類皆兄弟」と幻想的な集団を形成しており、そのような幻想的な集団の中では、具体的に誰も彼に仕事を命じないし、誰もその貢献を査定しない。
だから、平和主義者は誰からも文句を言われない。
というように、平和主義者であることは行使できる権利に対して義務負荷がきわめて少ない。
商品交換のスキームで社会的行動の特質を考量する人たちが「権利が多く、義務が少ない」平和主義者・オプションを選好するのは怪しむに足りないのである。
グローバル資本主義の爛熟の中で、平和主義者の若者が組織的に生まれるのはそのような理路による。
現実主義者というのは、その逆の行程をたどる。
現実主義者は自分が今在る状況を理解し、自分が現に帰属している集団のパフォーマンスを高めることを配慮し、隣人たちに敬意をもって接し、今自分に与えられている職務を粛々と果たすことをおのれに課す。
そのような「場所」や「集団」や「隣人」たちの数を算術的に加算してゆくことを通じて、やがて「国民国家」にまで(理論的にはそのあとは「国際社会」まで、最後には「万有」に至るまで)「私の帰属する集団」を拡大してゆくことをめざすのが現実主義者である。
若い人たちにはできることなら現実主義者をめざしていただきたいものだと思う。
政治的なものであれ学術的なものであれ、何かの主張をすれば何らかの集団に帰属することになるのは当然です(本人が望むと望まざるとにかかわらず)。そして、それを「奴はほかに居場所がないんだ」とレッテルを張ることは実に簡単です。特に、ナショナリストといった「幻想的な集団」にレッテルを張る場合、そのレッテルの正しさはほとんど問題になりません(ナショナリストの具体例たる1個人を想像できないため)。
論争術についていえば、それぞれの政治的主張と議論の巧拙に相関がないというのは自明だと思うのですが。
学者とか評論家とかオタクとか、およそ何かを論ずる人々の大半に適用可能な優れたテンプレートとして、末永く保存されるべきだと思います。
作品とか持っていったんだけど…
あんま興味持ってもらえなかったっぽい
以前、デザイン会社の面接官が、「本当にあるトホホな笑い話」という感じで話してくれたんだけど、そんな奴本当にいるのか…
話を聞いたのは2年以上前だから、元増田のことではないとは思うけど。
元増田がどんなシロモノを持っていったのか定かじゃないけど
そりゃ程度問題だろう。
「権利がある」との主張自体、相手方の権利との背反なんだから。
今回の例はそのへん問題外であるってだけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20090716142012
その2検証
とりあえず気になるところだけ。
特定非営利活動促進法(NPO法)は、橋本内閣が作った仕組み(実際の成立は倒閣後)で、
これによって、現在のような法人やお金持ちのところに、日本ユニセフ協会の節税担当が
出向いて税金控除の仕組みを説明して、寄付金を貰ってペイバックできる仕組みを作った。
(NPO法以前の日本ユニセフの寄付金25億>施行後、週刊誌などで
話題になった2001年で100億オーバー、現在は170億円)
なんだコレ?
節税担当が出向いて税金控除の仕組みを説明して、寄付金をもらってペイバック?
企業Aから日本ユニセフ協会に1億円寄付(半分税金に取られると考えると、実質5000万円)
↓
5000万円以上を企業A(または代表取締役とか?)にペイバックするということ?
こんなのあるはずないでしょ・・。
http://hirok52.blog78.fc2.com/blog-entry-271.html
ざっと募金額が156億円、カード販売で11億円の収入があったようです。
諸々込みで約170億円の収入。
一方支出。
事業費が17億円、10%程度ですね。
17億円の事業費でこのペイバック分を賄っているんですかね?
よく非難されているDMの送付とかも、この事業費から出ているわけですが・・。
本当にペイバックをしているのであれば、この事業費はもっと膨れてこないとおかしいはずです。
と書くと、UNICEFへの支出を146億円もしていないのでは?と疑う人もいるのでは。
http://hirok52.blog78.fc2.com/blog-entry-376.html
ではこの133,940千ドルという数字に妥当性はあるのでしょうか?
こちらの記事に書きましたが、
日本ユニセフ協会の2006年度のUNICEFへの支出額は14,679百万円。
14,679百万円 ÷ 115 = 127,643千ドル
若干の差が生じていますが、これは為替相場の差異と、
日本ユニセフ協会の年度が4月1日から3月31日ということに起因していると考えられます。
当たり前のことなのですが、日本ユニセフ協会の年次報告は正しいことが推測されます。
罵倒の声はまだ聞こえてない。
ただ上司が部長などに呼ばれると自分のことで何か言われてるんじゃないかと不安になる。
思い込みだとは解かってるし、自分に言い聞かせてはいるんだが。
周りの声が気になってしょうがない=自分のことを言われてるんじゃないか気になる
だからイライラするのか
http://anond.hatelabo.jp/20090714234233
同一性保持権の判例はいろいろあるけど、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E4%BF%9D%E6%8C%81%E6%A8%A9
どっちかというと18禁よりはパロディ裁判のほうで有名な話かねえ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
結局、その時代のコモンセンスに依るというだけで、大した話にはならないよね。