飛ぶ鳥を見ていた。大口を空けて、体を仰け反り阿呆のように空を舞う鳥を見ていた。鳥が自由の象徴だなんてステレオタイプに過ぎて笑い種かも分からないけれど、それじゃ、自由って何さ。何処へでも行けることだし、踏む二の足がないということだし、生まれ変わりを信じないということだ。必要がないということだ。
仕事は至極簡単で、かつつまらないものだった。アルバイトのほとんどがつまらないのだろうけど、僕の仕事はその中でも群を抜いてつまらないものだと自負している。自信がある、雇用主には悪いが。
客がひとりも来ないので、頬杖を突いて馬鹿みたいなエプロンを首からぶら提げて、馬鹿みたいなカウンターに椅子を出して座っていた。店長が来ないのをいいことに、半分寝てもいた。実際見つかったらとんでもないことだ、僕はまだ辞めるわけにはいかないのだから。それがどんなに馬鹿みたいな仕事だとしても僕に金銭を齎すことには変わりがない。それに少々の借金もある。前のアルバイト先でのような失敗を繰り返すわけにもいかない。前の失敗というのは要は遅刻したのを咎められて店長を殴ったんだけれど。どんな馬鹿みたいなエプロンだって、僕の馬鹿さ加減には適いやしない。
僕の就業時間が終わる。深夜、空気が冷たくてシャッターを閉めるときに流れ込んだ外気が異様に硬かったのが印象的だった。吉田さんが僕に声を掛ける。
「裏のダンボールも入れないと」
とても澄んだ高い声が眠った脳に響く。
「ああ、オレやるよ」
礼を言うようなことでもないのに、彼女は礼を言う。だって僕はここの従業員なのだから。僕は店の裏手に回り、高く積み上げられたダンボールのひとつを両手で抱えた。屈めた腰を上げると重量が膝まで音をたてるかの錯覚で、響く。腰にくる。以前、ヘルニアで入院したことがあったので少し危惧した。視界の隅に、影。
「んしょっ」
少し喘ぐような、うめくような可愛らしい声を出して彼女はダンボールを持ち上げた。吉田さんだった。
「いいよ、オレがやるから」
僕は主張したのだけれど、彼女は持つのをやめない。
「だって、前にヘルニアやったじゃない。ふたりで片付けた方が早いし」
彼女はそう言う。それで、僕はそれ以上は何も言わなかった。ただ、感慨に耽っていた。
「あたしの方が多分力あるよ」
そう付け加えた彼女は月明かりに照らされて、美しかった。
「まだ、腰かばう感じある?」
吉田さんはそう尋ねた。
「うん、まぁ、少しね。でも大丈夫だけど」
隣を歩く彼女が覗きこむように僕の目を見る。実際、膝の皿の下あたりに水が溜まるという事態になり、注射でそれを取り除いたりもしていた。腰を庇う故の膝への負担である。自己紹介的に話した僕の入院歴を彼女はきちんと記憶し、また気遣ってもくれた。長女故の優しさか、あるいは他のもっと何か別の、よそう。
彼女と初めて顔を合わせてから暫くが経つ。随分もう同じこのシフトで働いていた。僕としてはありがたかった、何しろ僕は人見知りが激しく、またぶっきらぼうな物腰のおかげでとても接し難い人物であるのだ。
「今日は家寄る?」
彼女は尋ねる。
「コーヒー飲ませて」
僕は言う。僕は初めて彼女の部屋でコーヒーをご馳走になってから、いつもこの言葉を期待している。いつもだ。
吉田さんの部屋は可愛らしい。余計な物がなくて簡素だけれど、可愛らしい。
「まだ両親とうまくいってないの?」
彼女は言う。
「…うん、まぁね」
言葉に詰る。僕が彼女の部屋に寄るのも深夜のアルバイトをしてそれ以外の時間は寝てだけいるのも、単に僕と両親の不仲によるものなのだ。彼女はひとり暮しだが、両親とも妹とも仲が良い。それはそうだろう、彼女を疎ましく思う人間などこの世にいる筈もない。忌々しい僕に限った話だ、そんな幼稚な事は。
淹れたてのコーヒーが産声ならぬ湯気を上げる。どちらも湯のイメージ、下らない連想、下らないレトリック。僕の下らない悪癖、嫌気がさす。
「暖房利いてきたね」
紺色のニットのカーディガンを脱ぎ、七部丈のカットソー姿になった彼女は暖房を切らずに言った。決して「暑い」と言ったり、「消す」と尋ねたりしない。だから僕は彼女が気に入っている。クソ忌々しい母親みたいなことも言わないし、親父のように小言も言わない。「親友」と呼びかけたりもしないし、「ちゃんとしなよ」と余計な心配もしない。彼女は全ておいて良い塩梅で、僕と付き合ってくれる。
「ミルクある?」
「あるよ」
吉田さんは立ち上がり、台所からミルクを5つ持って来た。暗にもう二杯ばかし飲んでも良いということなのかも知れない。そういう暗喩なのかも知れない。
僕は以前は部屋に貼ってなかった壁の数枚の写真を見咎めて言う。
「あれ、これ何?」
「へぇ」
意外だった。彼女は合宿なんて行かないと思っていたからだ。例え存在したとしても彼女は断るものだと思っていたのだ。はなから考えに入ってはいなかった、当たり前だと思っていた。
「戻る気ないの?」
「いや、まだなぁ」
休学したばかりですぐさま復学するのはないにしても、いずれ、だとしても、まだそういう気にはなれないのだ。僕は「まだ」と言ったが、本当は戻るつもりはなかった。例えば彼女に会うためだけには学校に戻れない、こうして会えているからだけではなくとも。
時計は4時を回った。
「面倒なら泊まれば」
僕は面食らった。予想外の言葉であったからだ。僕の家はここから歩いてだって15分くらいだし、帰れないということはありはしないのだから。電車だって使わない距離なのだから。彼女は恐らく僕の心情と事情を理解して、そういう彼女一流の許しと癒しを持って僕に接してくれたのだろう。
「あ、もうそろそろ寝るの?」
彼女は僕と違い、朝が早い。僕は1日ぶらぶらしているだけだから良いが、吉田さんはそうもいかない。
「寝るけど、まだ平気だよ」
「じゃぁ、寝るまではいる」
僕はそう言った。
「ちょっとトイレ入ってて」
吉田さんはそう言った。僕は言葉に従い、取りあえずユニットバスの扉を開け中に入る。ガサゴソという何かをしている音が聞こえるし、胸が高鳴る。僕も馬鹿じゃないから。
「いいよ」
扉を再び開け外へ出る。彼女はゆったりとしたパンツに履き替えて、長袖の薄いTシャツに着替えていた。薄いTシャツの下は下着をつけていない。欠伸を隠す仕草で口を覆ったとき、薄いシャツに乳首の形が浮き出る。僕は心臓が破裂する。
「何か貸そうか?」
「いや、いいよ」
「じゃ、寝るか」
凄い早さで胸が打つ。彼女が目を閉じ、それで僕は彼女が何かを待っているのだと確信して彼女を抱きしめた。更にドンドンと胸が打つ。僕は吉田さんの唇を塞ぎ、薄いシャツを捲り上げた。薄明かりの中、伏せたお椀型の暖かい空気な中では蕩けそうな胸の先に口をつける。ボタンのないゴムのパンツに手を差し入れて、弄る。僕は荒い息遣いで全身を弄った。彼女は声を上げなかったが、気付かなかった。
「あのさ…」
吉田さんの声は「ああん」ではなく「あのさ」だった。聞き間違いではなく、「ああん」ではなかった。僕は突然我に返る。隆起したものも急速に恥ずかしさで萎える。似ているけれど「ああん」と「あのさ」ではすごく違う。
「ごめん、嫌だった?」
僕はわけが分からずに尋ねる。焦る。
「いや、嫌じゃないけど、するの?」
彼女はそう言った。僕は何て答えて良いものか分からない。「する」の反対は「しない」で、「するの」と尋ねるということは「しない」という選択肢もあるということで、果たしてそれは僕が選択することなのかどうか、もしくは「するの?」は「マジで?」ということかも知れない。彼女は僕を罵りはしないだろうが、そういう気持ちは存在するかも知れない。僕の唾液が付着した部分が光っていた。
僕の借金の話をしようか。
僕が少々の借金をこさえた事は話したけれど、一体どんな理由かは話していない。理由はいらないかも分らないが、簡単に言うと罰金刑だ。
僕が学校を休学してはいないが事実的には進級が不可能になった頃、毎日繁華街で何をするでもなく、ぶらぶらしていた。その頃属していた劇団での立場が急激にまずい事になっていた時期で、役も貰えなかった。演出の奴を殴ったせいでもある。わざわざオーディションを合格してまで属した劇団だし、それなりに楽しかったのだけれど、どうもうまくいかなくなっていた。その折、街で喧嘩になった。
全く僕が悪い。何故なら僕が売った。3人組の若者がいたので、そいつらに聞こえるように酷い言葉を呟いた。彼らは一目見て良い恰好しいだと分ったけれど、人並み以上にプライドが高かったらしく応じてきた。3対1の殴り合いになり、勝てそうもなかったのと異常にムシャクシャしていたのとで、刃物を出した。刺してはいないし、少々斬りつけた程度だったけれど、そこで御用になる。実刑にならず、親に肩代わりして貰い今に至るということだ。それでも釈放されるまでは地獄のようだったが。
「するの?」
彼女が悲しそうな顔でそう尋ねた後、僕はまた急速に隆起していた。
再び下着の上から当てた指を動かすと、彼女はとても大きい声を上げた。僕は勢いづいて下着の中へ指を入れて動かす。隣の部屋まで響くような声を、彼女は出す。それから僕は吉田さんの着ているものを脱がした。
「あれ?」
僕は自分のものを彼女の入り口に押し当てた瞬間、不思議な感覚に襲われる。
「あれ?」
もう1度呟く。
「あれ、あれ?おっかしいな、クソ、何でだよ」
最早泣きそうだった。
「気にしないほうが良いよ」
そして彼女はこう言った。
すごい、何もかもが嫌だった。生まれたことすら呪った。僕は学校も両親も兄弟も学友も教授も店長も災害も事件も平和も金も芸術も僕も、何もかもが嫌だった。一番は僕だった。クソ忌々しいアルバイトでこつこつ日銭を稼いで、こつこつ自身の一部分を削って量り売りするのだ。テレビをつければ、クソ忌々しいワイドショーがタレントのセックスを追いかけて、クソ忌々しい番組が馬鹿みたいな笑いを押し付ける。僕は可笑しいときには笑えないし、笑いたいときには笑えない。そういう風につくられているのだ、この国は。いやこの世界は。クソ忌々しい。
爆発しそうだった。最早爆発しか許されていなかった。殺しは許されていなかった、だから爆発しかなかった。僕は何かを巻き込むことが許されていなかった。誰かを巻き込むことを望まなかった、だから、ひとりで、誰とも関係なく、たったひとりで、誰も知らないところで、生まれ変わることを決心した。
弟に車を借りた。僕は免許を持つが車は持っていなかった。
「明日、車貸してよ」
僕は深夜にそう告げた。彼は良い返事で快諾してくれた。二階の自分の部屋で、服を数枚と現金をリュックに仕舞い、地図を用意した。明け方、まだ誰も起き出さない時間帯に自動車のキーを握り締めて荷物を背負い、エンジンをかけて出発する。さらば、僕の生まれた町よ。
国道を快調に飛ばす。明け方は車の数も少なく、頗る順調に進路を北へ向け走った。途中、お腹が空いてコンビニエンス・ストアでおにぎりを買い駐車した車の中で食べた。もう大分町からは離れた。僕は嬉しく思う。遣り直せる、僕のクソ忌々しかった人生はし切り直せる。ただ少しだけ違った、掛け違えたボタンを掛け直せるのだ。誰も知る人がいない町で、何も知らない町で、僕がどういう人間かを知る人間のいない町で。煩わしい些事や柵、絡め取られた手足の自由を、フルに、全開に、僕という人間の素を元を、僕を形作る構成する根の部分で、僕は生きることが出来る。下らないアルバイトともさよならだ。
また休憩のためにコンビニエンス・ストアに立ち寄った。
街灯が点る。
僕は携帯電話を取りだし、吉田さんに電話を掛ける。出ない。もう1度掛ける。
「はい、もしもし」
彼女が出た。
「あのさ、今何処にいると思う?」
「何?何処?分らない」
「なんと、××県にいます。さよなら言おうと思って」
「え?何?何言ってんの?」
彼女は本当に事情が飲み込めないようだ。当然と言える、何故なら僕は去るのだから。そういうものだ、別れとは。
「オレねぇ、遣り直すよ。誰も知らないところに行って、何もかも全部遣り直すんだ。弟から車を借りてさ、ここまで来たんだよ。アルバイトは後で電話して辞めるって言うんだ。お金は心配ないんだよ、実はさ、オレ結構貯金あるんだよね。50万くらいはあるんじゃないかな。朝、銀行が開いたら一番に金おろして、それで、部屋借りるんだ。多分、足りるし、当座暮すには困らないと思う。親に払う借金を返済滞らせてさ、密かに貯めていたんだよ。それで、部屋決まったら仕事探すんだ。オレひとりが暮す分ぐらいは稼げるよ、オレ若いし。そしたら、遊びにおいでよ」
僕は言いたいことを早口で、興奮しつつ一気に喋った。
「車貰っちゃうの?」
彼女は訊く。
「いや、返すよ。だって維持出来ないし、可哀相じゃない。落ちついたら弟だけには連絡して、取りに来て貰うんだ。そしたらオレが生きてることも親には知らせて貰って、捜索とかも止めて貰う」
「心配してるよ」
「あいつらの心配なんか関係ないよ。オレの気持ちは分からないんだもの。育てたのはあくまで「息子」であってオレじゃないんだから」
「そんなに働けないよ、大変だよ」
「大丈夫だよ」
「腰は?痛くならない?」
「それも大丈夫だよ」
少しの沈黙があった。
「何で何処かに行かなきゃならないの?」
「同じ場所にいたら何も変われないからだよ」
「違う場所に行ったら変われるの?」
「多分」
「あたしを嫌になっちゃった?」
「そういうことじゃないよ。だから、生まれ変わるためには全部捨てなきゃならないんだって」
僕は少々イラついていた。水を差された気になっていたのだ。
「この前のこと、気にしてるの?」
「違うって!」
つい怒鳴ってしまう。
「オレの人生だ、オレの人生だ、オレの人生だ。好きなことをして暮すんだ、何も煩わしいことに関わらず、オレは本来のオレのままで、オレの人生なんだ!」
僕は興奮していた。
「今まで、本当じゃなかった?」
「あたしと会っていたのは違かった?それも本当じゃなかった?辛かった?」
僕は答えられなくて沈黙した。そして重い口を開いた。
「だって、付き合えないもん。彼氏いるもん、何も思い通りにならないもん、バイトして、家に帰って、寝るだけだもん」
「あたしと付き合えれば帰るの?だったら、いいよ。付き合おう。だから帰ろう?」
「彼氏は?」
「別れる」
「違うよ、違うもん。それじゃ、意味ないもん」
涙が何故か止まらなかった。さえずる小鳥のように止まない。
「ねぇ、好きなことって何?」
彼女は尋ねる。
「分らない」
「見つからなかった?」
「うん」
「見つけようか」
「うん」
だけど涙は止まらなかった、ただ眩いコンビニエンス・ストアの明かりが滲むのを見ていた。彼女は静かに言う。
「帰ってきて」
「うん」
僕は車の中に常備したティッシュペーパーの箱から数枚を抜き取り、思いきり鼻をかんだ。キーを回し、サイドブレーキを下ろす。ぼんやりと浮かんだ月から漏れた光りが白い車体を照らして、僕は誰も知らない土地で生まれ変わり損なった。
吉田さんの部屋の前で車を止める。彼女は僕が車を着けるずっと前から部屋の扉の前で、二階の柵ごしに階下を見下ろしていた。車のドアを開けて体を半分出して見上げると彼女は真っ青な顔色で今にも倒れそうなぐらい儚げにその華奢でか細い体をやっとの思いで支えているように見えた。彼女の吐く息は白く、そしてまた僕の吐く息も白い。
「おかえり」
頬を紅く染めて、安堵した顔つきで吉田さんは言う。
「ただいま」
僕は言う。
コインパーキングに車を停めて、彼女に連れられ部屋の中へ入る。力なく吹いた風の力ですら吹き消えそうな程彼女の体は軽い。よろける彼女を後ろから支えた僕は思う。そして驚く程冷たかった。暖かな暖房の利いた部屋で、紅潮した顔のまま彼女は熱いコーヒーを淹れてくれた。ぽつぽつと話し出す。
「いいところだった?」
「景色さえ変わらなかった」
「そう」
異変に気が付き、瞳の潤んでいた吉田さんの額に僕は手のひらを当てた。良い匂いがふわりと漂う。
「熱あるじゃん」
「平気よ」
彼女は笑って言った。
「ただちょっと暑いだけ」
「布団敷くから、横になりなよ」僕は慌てて布団を敷く準備をする。
彼女はにこりと朝露の弾ける様のような笑みを零した。苦しさは微塵も見せずに。
薄明かりの中、彼女は僕の手を握る。
「もし迷惑じゃなかったら、手を握らせていて」
咳き込みながら言う。僕は首を左右に旋回させて、掛け布団を捲り体を滑り込ませる。彼女は「うつる」ことを危惧したが、僕はそんな些事を物ともしなかった。取り合わなかった。
「不安だったの」
弱弱しい声で彼女は言った。彼女の常は気丈で、ついぞ聞いたことのないような微弱な周波であった。彼女は僕のズボンの股間に手を這わせた。地形のアップダウンをなぞりひた走るラリーカーのように、布に浮き出た隆起を指で擦った。僕は何も言わなかった。ゆるりと伝わる快感に身を任せていた。布団の中の暗闇で、見えぬところで、僕のズボンのボタンが外されジッパーが下ろされた。下着の上から力任せに擦る。
彼女の手の平は汗がじっとりと滲み、湿気の多い指で、心得た動きで、僕を誘導した。短く空気を切るような吐息が僕の口から漏れる。奮い、僕は彼女の手の甲に自らの片方の手を添えて、静止した。
「大丈夫だから、しようよ」
彼女はまた咳き込み、言う。
僕はゆっくり首を振った。
「違うよ、あたしがしたいの」
手の平を彼女の両目を覆うように翳して、僕は言った。
「今は体が大事だよ」
「大丈夫だよ、ねぇ、触って」
彼女は明らかに何かを焦った。そして僕は告げる。
「吉田さんが大好きです。何よりも好きです。眩しくて、頭の芯が痺れて、でも自分を省みたときに、だから嫌になる。だから変わろうと思った。でも実際は逃げただけだった」
しばしの静寂が息を呑む。
「オレ童貞なんだよ」
彼女は目を丸くしていた。僕は笑わなかった。
「分った、大人しく寝る」
切迫感のない表情で静かに言った。閉じた目で何か考えた後、瞼を勢い良く開けて彼女は言う。
「口か手でしてあげようか?」
「え」驚き、躊躇する。
「ご褒美」
そう言って彼女は布団の暗闇の海、奥深くに身を沈めた。
僕は演じていた。長い間、ずっと演じ続けていた。
初めて物言えぬ恐怖を覚えてからというもの、中断なく設定した役でい続けた。その僕は、臆することなく人並み以上の胆力を持つ。髪の毛の色を奇抜にすることでピアスを沢山開けることで人々の好奇な視線に晒されることで、周囲の恐い視線に怯える僕を畏怖の対象へと格上げさせた。ケンカを振っかけることで、襲う側へ回ろうと思った。全ては遠ざけることで僕という個を見つけ易くする目的であった。本当の自分は分らなかった。奇しくもそんな僕が劇団に属し、役者という付加価値を欲した。僕は役者ではなかった。演じていたが、役者ではなかった。ラインが曖昧になり、殊更僕が分らなくなった。
幕が降りた後も僕はステージに上がり続けていた。観客は帰り、拍手のないところで、僕は演じ続けた。
ファッション、薀蓄、趣味嗜好、どれも僕は救ってはくれなかった。もがき、救いの船を待った。
そして天啓、変わらなければ。
この宇宙の下、僕はもがき続けた。
下らない世界、下らない日常、思いは変わらない。無限の可能性を持たされて生まれた筈なのに、僕に出来ることはあまりに少ない。
希望があった。
それは小さくだが、微かに光を発した。
この宇宙の下、僕は生きていた。
下らない世界、下らない日常。固定された首も癒え、あたりを見回すと僕は生きていた。死んだ方がましだと思っていたことはそうでもなかった。死ぬ程ではなかった。何故なら僕は生きていたのだから、それを手放す程ではなかった。気持ちが良かった、気持ちが良かった。
僕は自由に向けて旅立つ。野放図な精神が蔓延る地へではなく、自らの由に向かい、僕の僕の、僕へ。自由はアメリカにはなかった、自由はほかの素晴らしいくににもなかった。他の何処でもない僕の心の平原にあったのだ。生きるのならば、ここで生きる。理由が必要なら彼女のいるここで。