自分が誰にお気に入られているか検索したとき、自分がそのブックマーカーにとって何人中の何人であるというのをわりと気にしてしまう。そんなでもないけど。
100分の1とかだと、あーはいはい、って思う。もちろんやめてくれって意味じゃなくて、そういう使い方も分かる、理解できるが、しかし、あーはいはい俺のパワーは100分の1ですよね、あなたにとって、という感じに見えないこともないんであって、やっぱり母数は少ないほうが嬉しい。母数20くらいだと、ちゃんとブックマーカーとして認められている感じがする。20分の1。そんで10未満分の1は結構嬉しい。より強い影響力である、という気がして嬉しいのであるが、しかし、1分の1とかなると嬉しいというよりなんかびびる。
最近1分の1をいただいたんだけれども、まあ嬉しい。しかし、数あるブックマーカーの中からなんで俺なのか、っていうか、自分はもう本当弱小ブックマーカーなんであって、ブクマする記事もそれほど特殊とは言いがたく、自分から見ても1分の1に値するブックマーカーではないんじゃねえの、って思うので、ということは、つまり、彼にはべつのいとがあるのであろうか、例えば観察、って、しかし自分はダイアリーなどは書いていないし、ブクマコメントも自分検索用の無機質なものばかりなので、ネットヲチ的には面白みにかけるから違うっぽい。試しにお気に入りいれてそのまま放置という可能性も考えにくい、っていうのはつい最近整理されて、2分の1から1分の1になったからである。ちゃんと見てる。なんで俺を残した。アイコンのためですか。CSS考えるのに少なくとも1人はいたほうが良いのか。不可解である。その前に某有名5さいじブロガー氏と俺の二人だけをお気に入りにいれていたというのが非常に不可解なんですけど。あなたの好みが分からない。あなたの1分の1から外されたら俺は割りとショックですからできるだけあなたの好みの記事をブクマしたいというのは本末転倒というかなんていうかわからないけど意味なしだ。つうかお前俺より被お気に入り数多いからいやだ。
http://anond.hatelabo.jp/20061227015627
まとまってないけど書いてみる
「反論できないもの」に近似していて
「感情論」の対比として用いられるもので
「正論」の「正」にはあまり重要な意味合いはないような。
あえていえば仮定としての「正しさ」かな。
勝負した 覚えないのに 負け組に
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/senryu/news/20061227ddm003070025000c.html
アルイテイシアは結婚式に呼ばれるんだろうか?
巷で蔓延するニセ科学批判。多くの人間の共感を呼んでいるが、実は問題はそう簡単なことではない。
確かに、追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ!
と、定義できればこれほど簡単なことはない。
実際、そのような定義が正しいとは思う。
しかし、科学者自身がニセ科学を批判するには人類が築き上げてきた科学は脆弱すぎる。
科学がニセ科学を糾弾できない真の理由はを知るには『進化論』問題を見れば解るだろう。
なぜ進化論がニセ科学かは、具体的に事例を出してゆ行けば自ずと結論がでるのだが、これは実に根が深い問題である。
人と猿は近い種と考えられているが子供を作ることは出来ない。そこには明確な断絶があり、どのような手段で『進化』がこの壁を乗り越えることが出来たかは今だ明確な説明できない
猪から豚が、狼から多種多様な犬が生まれたからといって、進化はあると言うのは紛れも無いニセ科学的な論法である。事、人間に関してはミッシングリンクなどと言う名称までつけて事の解決を図ろうとしているが、これは現在は実証しようがないと認めているに等しい行為である。
進化論をやっかいなニセ科学にしている理由に多種多様な化石の存在がある。
そして、始祖鳥を筆頭に恐竜から鳥が、魚から両生類が、両生類から爬虫類が…と言うように進化したと言われている。しかし、これを証明できるほど遺伝子工学は進歩していないし、結論は別のものであると考えたほうが遥かに健全であろう。今の段階でこの希望的観測を学校の授業に取り入れるのは間違いである。
クローン猫の事例を出せば納得してもらえるだろうか。
恐らく多くの人間は遺伝子が同一なクローンはオリジナルに極めて近い性質であると考えたであろう。
私もそう予測した。
しかし、実際は違った。模様から性格に至るまでそれは明確に別の固体のように振る舞い、一卵性双生児のように極めて近い存在とはならなかった。しかし、同じ遺伝子であることに間違いは無い。細胞の寿命に関する機能が原因ではないかとも言われているが、多くの遺伝学者、識者が予想もしなかった結論がでた。
つまり、当時のクローン技術で予測された結果は正しくはなかったと言うことだ。
科学とは証左できない存在を排除するプロセスを経て初めて機能する具体的事例をここに出した。
しかし進化論では、状況証拠から結論を予測するしか出来ない。これは間違いを必然的に孕む手法であり、何より間違いを正す手段が無い。
更に言えば、進化論を形作る多数の証拠には扱いに困る物も多い。
例えば、中国政府が北京原人は実在すると主張し続ければ北京原人は存在することになる。(証拠が既に紛失してしまったので検証しようがない)
現在、進化論のような理論が提唱されても学会で否定されるであろう。
このような証左を求めることが出来ない存在は現在の科学では入り込む余地がない。
しかし、これは当時の時代背景を考慮に入れなければ説明できない問題である。
実は科学とはアインシュタインの相対性理論をターニングポイントにその性質がガラリと変わっている。
それまでは、科学には無限の可能性があり、明らかに出来ない事象は存在しないと信じられてきた。
しかし、このドイツ出身の物理学者が提唱した相対性理論によって、そのことが明確に否定されてしまったのだ。ビックバンと呼ばれる宇宙開闢以前の時間が存在しない『モノ』の考証を物理学は放棄した。
これは、当時の科学者には相当な衝撃であり、決して受け入れられないと考えた学者も多かった。
しかし、誰一人、論理的にそれに対抗できる概念を作り出すことが出来なかった。
(その残滓がタキオンやエーテルと言えば理解できるだろうか?)
さて、話は戻るが進化論はアインシュタインの相対性理論発表前にダーウィンが提唱した論文が発端になっている。科学が万能であると信じられた時代の遺物。まだ、科学が錬金術と近い間柄だった時代に生まれた存在である。
はっきり言ってしまえば、進化論とはアインシュタインが科学の万能性を否定する以前の学会だからこそ認められた存在であり、これは科学というより歴史学といったほうが良い代物である。
ちょうど大阪大学の菊池誠教授の『水からの伝言』でニセ科学が話題になっていたので常々思っていたことを文章にしてみようかと。それまでは、非常にナイーブな問題で、米国のほうではインテリジェント・デザインとかいう物まで生まれてしまうほど議論にさえならない状態だったこの問題に区切りをつけて、科学とニセ科学を明確に分けたい!という衝動から書かれた文章。
伝えたいことは進化論の科学的な証明プロセスはありえない存在であり、進化論を科学と扱うことを否定して貰えればそれでいい。
進化論が流行らせた最大の間違いは何か?と聞かれれば私は獲得形質を挙げる。
既に遺伝学的に否定された獲得形質ではあるが、
この考えが根本となり、ナチスの優生論が生まれ、多くの人間が犠牲となった。
淘汰は自然には起こらず明確な人の意志によって行われたのだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20061226222936
実はこの手の話は感情的になる人間が必ずいる。しかし、大事なことは追試をどう行えば進化論が肯定・否定されるかを彼らが提示することはないという事実だ。
私は進化論が間違いだと言っているわけではない。そもそも進化論は否定する必要さえない段階の説なのだと言っているのだ。
タイトルが釣り過ぎという指摘はその通りでございます。賢い貴方に乾杯。
(続・科学が『ニセ科学』を糾弾できない本当の理由 - はてな匿名ダイアリーに続く)
07:41:09-12/27(水)/2006
インテリデザインという不正確な表記をインテリジェント・デザインに訂正
14:11:45-12/27(水)/2006
15:05:07-12/28(木)/2006
続編リンク追加
ときどき無性に日の出が見たくなる。
それは今日みたいにこんな時間に目が覚めてしまった、あるいは今まで起きていたような日で、
つまりは不規則な生活のあらわれだ。怠惰の証拠だ。だって普段の俺の生活リズムなら
こんな時間に起きるはずなんてない。ぐうたらし尽くしてるとき、たまにこんな時間に起きてる。
そして無性に日の出が見たくなる。
もしくは逆に、無性に日の出が見たくなったから起きた、のかもしれない。
まあとにかく見たくなる。特に冬の空は格別だ。月並みだけど空気が張り詰めてていい。静けさが際立つし、空の迫力が尋常じゃない。今夜明けだが、昨日みたいにものすごく降ったあとでカラカラに晴れたときの夜明け前から日の出までなんて、もうこれだけで泣けるぐらい凄い。そして日の出はもっと凄い。見た瞬間、今日も一日頑張ろう、って気になる。頑張る?こんな時間に起きてるぐらいぐうたらなのに?眠気も最高潮のはずなのに?そう。実際今日も一日頑張れない。あの誓いは何だったんだってなるのがいつものパターン。でも、太陽を見てる間だけはホントに、心の底から勢いがせりあがってくる。やっぱ太陽は凄い。自殺志願者は富士の樹海へ行く前に五合目でも何でも行って太陽を見るべきだと思う。富士山といえば毎年元旦のニュースで初日の出をみ隊、のような連中が報道されるけど、あの人たちの気持ちはホントわかる。年明けたばっかなのに人波にもまれて人が作ったおみくじで一喜一憂するのはさらさらごめんだけど、年明けたばっかなのに日本で一番高い山をヒーヒー言いながらただ単にでかい火の玉眺めに登るのは全然アリだ。ていうかこれ打ってる間に空がもう白んできたけど、どうやら今日はハズレの日みたいだ。カラッカラに晴れてるかと思いきや、ホライズンのあたりにクラウドがギッシリで日の出がよく見えないまま朝になってしまった。でも何か元気だ。打ってる間に心の中で今まで何度も見た日の出をシミュレートしたおかげかもしれない。太陽は、俺の心の中にあるんだね・・・。よし、かっこいいこと言った気がする。そろそろ寝よう。もう7時だし。・・・あれ?
少しずつで良いから続けていくべきだ。なにも継続しないと何が残ったのかわかりづらくなるのがネックだからさ。