しかし、十六代目まで世代を重ねても何ひとつ成果を出せなかった。
当時の当主、折原直継はヒヒイロカネの実在を疑い、探求を諦めるようかと迷っていた。
ところがある日、直継の夢の中に稲荷大明神が現れてひとつの預言を伝えた。
直継はそれを信じた。
直継は稲荷大明神に敬意を払って狐の鳴き声から、その女児に「紺 (こん)」と名付けた。
当時の鍛冶師は神職の一種で女性が携わることは出来ないのが建前であったので、表向きは男児として扱った。
紺は確かに優秀であった。
そして紺が二十歳のときにはヒヒイロカネの性質に近い金属の精製に成功さえした。
その金属はヒヒオルカネと名付けられ、大戦中は重用されたという。
大戦後は物資が不足したということと、直継が戦火に巻き込まれて死亡したからである。
婿は海産物の研究家であったのだが、海水の成分についての成果が合金の精製に応用できると気付いたからである。
そして更に十年、ついにヒヒイロカネが完成した。