かつては「家」というシステムがきちんと運営・循環されていた。
しかし「家」から出て行く自由を許し、
「家」というシステムを成り立たせる構成員=家族がいなくなった為,
っていう過去の上に今が乗っているよね?
「かつて」をスペクタクルで見せてくれる。
それでいてその描き方が「ペシミストになれ!」って方向ではないから、
カタルシスでやってくる。
お婆ちゃんが亡くなって、「仇討ちだっ!」って男たちが活気づいて、
最後、「家」はそう快に半壊すんの。
アラワシの直撃は回避するんだけど、衝撃波はあって、ちゃんと半壊する。
でも、みんなぴんぴんしてんのね。
そういうプロットは良いと思う。
でも何が惜しいかっていうと、主人公の健二でね。
「なんで健二を主人公にしてるのかなぁ?」とついつい言いたくなってしまう。
時かけの時にも思ったけれど、「我が身を削って物語を顕現させる」っていう
姿勢ではなく,大多数の当たり障りのないところに落とし込むのな。
それだったら、佳主馬を主人公として、夏の娯楽映画として、
少年の成長物語として構成した方がよっぽど素直に観れたよ,と思うのです。
健二が旧家に飛び込む現代っ子代表だったら、「自分の家では一人だったので、
この家に来れて嬉しい」っていうのを演出で見せて、受け手に委ねてくれればいいのに、
台詞で言っちゃうしさ。(台詞で言えたら、彼は素直だね。って広がりのみさ!)
健二は数学の天才って設定だけど、それ以上に、あの年頃の男の子で、
ああ素直なのは、きっぱり特異だよ。
健二は裏方に徹っし、格闘ゲーム・チャンプで子供の佳主馬と、健二が
憧れる先輩で女の子の夏希がバトルは受け持つので、それでそのふたりが、
素直に頑張る健二の横顔に、ぽーっとなるから、平衡はとれてるけど。
「今の男の子にとっての家」っていうのを、描き出すには、
健二はあまりにぶれてない(健二は侘助とも対比になんない‥!)
家族の愛情なんて、同じ釜の飯でも喰ってりゃ、後からついてくるもの。
そういうスタンスで作られたこの映画において、健二が旧家の大家族に
受け入れられることはさほど問題じゃない。
(だから健二が素直でさっさと問題解決なのはイイ!)
旧家は壊れて、じゃあ新しい「家」は?
それらは尻すぼみっていうか、別段提起されてなくってさ‥‥
健二みたいな子が、ウチの婿だったら可愛い!って理想の男の子話に
摩り替わっちゃったYO!っての。