はてなキーワード: 漢字とは
ああやっぱりその程度なんだな。予想どおり。なんかね。あの時代の大絶賛されてるものってだいたいそんな漢字だよね。CLANNADとかあんな界隈のやつと一緒。好きなやつは好き、くらいのパワーしかないやつ
なんか一部で名付けで「萌」を「も」と読んだり、「翔」を「と」と読んだりするのはおかしいというような風潮があるが、理由がよくわからない。
これらは普通にある訓読みなので名付けの読みで使ってもなんらおかしいことはない。
「萌える」も「翔ぶ」もどちらも漢和辞典に載っている読みである。
歴史的にも、
壬生忠見(みぶのただみ)の「見」
など、名前の読みで訓読みの送り仮名を省略して使う事例は多々ある。
確かに萌歌とか勇翔とかは最近出てきた使い方かもしれないが、漢字の読みの原則としては上記の歴史的な例と使われ方に違いはない。
これが例えば「星」を「ほ」と読ませるようなのはさすがに若干キラキラ感が出てくるとも思うが、訓読みの送り仮名の省略は伝統的にも普通に使われてきたとしか評価しようがない気がする。
恣意的という言葉の意味を説明するにあたり、まず、この言葉の語源に着目せねばなりません。「恣意」という言葉は、「恣」と「意」という二つの漢字から成り立っています。「恣」は、「ほしいまま」「みだりに」という意味を持ち、「意」は「思う」「考える」という意味を持つ、いわば、cognitive functionを表す言葉であります。
ゆえに、「恣意的」という言葉は、「自分の意思や欲望に基づいて行動する」という意味合いを持つのです。しかしながら、この言葉が持つニュアンスは、単に自分の意思に基づいて行動するということだけではありません。むしろ、「恣意的」という言葉が使われる文脈においては、その行動が、社会的な規範や倫理、あるいは、客観的な事実や論理に反しているという含意が込められているのです。
例えば、政治家が自分の利益のために公共の資金を使った場合、それは「恣意的な行動」であると言えます。また、科学者が自分の仮説を証明するために、都合の良いデータだけを選んで発表した場合も、「恣意的なデータの選択」であると言えるでしょう。
このように、「恣意的」という言葉は、主観的な欲求や意思に基づいた行動が、客観的な基準からは逸脱しているという状況を表す言葉なのです。それは、言わば、個人の ego が、社会の norm を超越してしまった状態を指す言葉だと言えます。
この言葉が持つ意味合いを深く理解するためには、哲学や倫理学、さらには心理学や社会学といった、様々な学問分野の知見を総動員する必要があるでしょう。そして、その理解を通じて、我々は、個人と社会の関係性という、人間存在の根源的な問いに対する洞察を深めることができるのです。
掃いて捨てるほど生まれるVTuberの中の一人に過ぎない彼だけど、私にとっては日常に色を添えてくれる推しだった。
とある企業の研修生としてデビューした彼は、週一回の30分だけの配信でも惹き込ませるには充分だった。
推しとしての私の好みドンピシャのビジュアルと声の雰囲気でオマケに趣味が似てる、それから配信を見るようになった。
平日の昼の配信で、リアタイが難しいからアーカイブを追っかけた。研修生だから動かないし、表情も変わらない。立ち絵のまんまの無表情。それでも彼の配信は明るくて面白く、配信終わる時のお別れの挨拶がとても素敵で好きだった。いつか企業でのデビューを勝手に一緒に夢見て追いかけていた。
研修生だから、同期もいる。先輩も居たし、後輩も居る。その中でもアーカイブの再生率は高かったと記憶してる。贔屓してると思われるけど、初配信のインパクトが強く話題性がとても高かった。
だから、私は勝手に『企業で絶対デビュー出来る、いつデビューするのかな。』って思ってた。でも、デビューしなかった。彼の先輩たちが早くて3~4ヶ月位の研修を終えてデビューしてたのに対して、彼の期は殆どデビューしなかった。
2~3週間配信休みの案内が来るとドキドキした。何故なら今までの研修生が休み明けにデビューしてたから。
休み明けにツイートも配信の告知もあると少しガッカリした。企業の方から違う研修生がデビューすると、喜んで安心もした。研修期間が長いけど、ちゃんとデビューしたんだ、良かったなって気持ちになる。でも、少しだけガッカリした。
私は貪欲だから週一回のツイートや30分だけの配信じゃ満足はしなかった。もっと配信見たいしゲームしてるところを見たい、歌が苦手じゃないなら歌ってみたも聞きたいし、もっと好きな物を語るだけの枠も見たい、表情が変わらないから笑ってる顔や怒ってる顔や困ってる顔、ほかの表情が知りたい。エイプリルフールネタが面白かったからボイスドラマとか聞きたい、今企業でやってる企画とかも出て欲しい。欲は尽きなかった。
ファンレターを1度出した。書くのは中学生振りで、文書を纏めるのと漢字を書くのが苦手だから下書きを書いた。ノートに2回くらい書き直してボールペンで便箋に清書した。字が下手な事に絶望しながらゆっくり、丁寧に書いた。無地の便箋だったから、配信で好きだって言った食べ物のシールを賑やかし程度に端に添えるように貼った。バレンタインの時期だった気がするから、「春頃にまた書きます。」みたいな事を書いていたと思う。私生活が忙しくなり、結局2回目のファンレターを出す事は叶わなかった。
まだ配信してた頃に、「この封筒、推しっぽいな。」と思って買った封筒がある。次はこれに入れようって思っていた。今日久しぶりにその封筒を見た時、やっぱり推しっぽいなって思った。
私生活がどんどん忙しくなってアーカイブも少し溜まった頃、推しが消えた。
推し含む何人かの研修生のアーカイブが消えた。私は、来たんだなって思った。『デビューするんだ!』って嬉しくなった。
今までは男女別にアーカイブが消えていたが、今回は男女関係なく消えていた。混合でデビューするのかなって思って楽しみにしてた。でも、待てど暮らせどデビューに関する報告は無く、残された研修生のアーカイブも大量に消えた。
推しが消えた。
ショックだった。
デビューするもんだと思ってた。勝手に期待してたから勝手に絶望した。寝込んだり体調を崩すような事は無かったけど、私の日常から彩りが少し欠けた。
最初は嘆いてた、亡霊のように過去にしがみついたいた。パブサして他人のツイートで勝手に傷を分かちあっていた。でも、そんな余裕が無いくらい仕事が激務になって家庭も荒れて鬱になって、彼の居ない秋と冬と春が終わった。気が付けば、思い出すことが無くなっていた。彼の同期だったライバーの配信の切り抜きやツイートを見ても影すら思い出さなかった。その事に気付いて少し悲しくなった。
彼は世間から見たら数多の中のVTuberの1人に過ぎないし、私からしたら数多の中の推しの1人に過ぎなかった。
私は推しが作中で死ぬ経験も無いし引退する事も無かったから、何のアナウンスも、お別れもなく消える事はショックだった。
長いし何書いてるか分かんないし、綺麗に纏めるつもりもないし、誰かにヨシヨシして欲しいとか思ってるわけじゃないけど、めっちゃバズったらワンチャン推しの目にも入るかなってカス見たいな下心があるけど、私の中の1つの区切りとして世に放つことにした。
勿論、世に放てば私の推しへの感情はインターネットの玩具にされて消費されて一生残るけど何処かに出したくて仕方ないから放ちます。
これをたまたま見つけて読んでくれた推し、見つけてくれてありがとう、汚いもの見せてごめんね。
増田はこの14年ほど、海外情勢に強い関心を抱くようになり、毎日ストリーム配信で海外ニュースをチェックすることと、ニュース記事などを乱読することを続けている。(もちろん、新しい単語や表現の勉強も欠かしていない)
その成果あってかなり英語がスムーズに読み、聞き、また喋れるようになって来たのだが、困ったことに、次に上げるような弊害が出てきた。
写真をとる to take a picture を「撮る」に変換する考え方とかが凄くめんどくさいと感じるようになった。音で聞いても文脈で聞き分けられるものに、いちいち違う漢字を当てる意味とは? とどうしても思ってしまう。
「何故ならば」「というのも」みたいに、日本語表現だと持って回ったものとしてあまり多用されないargumentation(理由付け)をいちいちつける癖がついてしまったり、翻訳調の言い回しにどうしてもなってしまう。
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない、あるいはそこまで重視されない。
↑という文を、例えば日本語で
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない。あるいはそこまで重視されない。
しかし、英語では元々、口語でも後付けで which is など関係代名詞の複文を継ぎ足していくことが出来るような構造をしているため、短文の連続とひとつに連なった複文で、イントネーションをしっかり変えるというルールがない。だから、英語をスムーズに読む訓練をするときは、日本語と逆に、「,」だから音を上げたままにする、「.」だから音を下げる、などのルールに拘らず、「,」でも適当に音を下げてしまう。「.」でも音を上げっぱなしにしてしまうというイントネーションになれる方が良い。そうしないと、ネイティブのニュースリーダーなどのイントネーションで文の切れ目に変な先入観が入って上手く聴き取れない。
これになれてくると、今度は日本語の「、」と「。」のイントネーションのコントロールが難しくなってくる。
書いていても、なんとなく複文の途中で音を切ってしまう感覚で「。」を入れたり、日本語としては読みにくい句読点の使い方が出てきてしまったりする。
増田は学生時代小説など書いていて、「、」「。」の使い方にまで結構拘る方だったのだが、最近はこのせいであんまり日本の小説などの味わいもよくわからない感覚にとらわれ始めている。翻訳で失われるものってどれだけ重要なのか、と考えて自己正当化を図ろうという衝動も起こりさえする。
言語の隔たりって、難しい。
読みの統一は国際化への対応と教育コストの低下の両面からメリットがある
早を「サッ」と読むのはこの二つしかない
以上、早急に取りまとめておくように
全く話が見えない。できれば詳しく。
確かにカブルモンの2巻が出てないのは作者ツイートの漢字からして一悶着あった線が濃厚だがその話か。(他の作品は電子化しててこれだけ電子化してないのもきな臭い)
「重複」を「ちょうふく」と読んだら「じゅうふくだよwww」を言ってくる奴を許さない委員会の投稿に「代替」「続柄」などさまざまな委員会が反応
って記事があって、
前々から気になってたんだけど、文字変換がこれらの間違いを加速させてる問題。
だいがえ 代替
ぞくがら 続柄
その他にも
そうさつ 相殺
ぼんよう 汎用
ひとだんらく 一段落
かいどく 解毒
これらが指摘されているが、
全てスマホやGoogleIMEだと一部は「もしかして」の注記はあるものの変換できてしまう。
IMEを作成する側として間違いを正して(変換できない)あげるインセンティブが無いのだからはいはい「ぞくがら」ね「続柄」の漢字が欲しいんでしょう、はいはい、
と出してやったほうが「変換率」「ユーザービリティ」は上がる。
クラウドでだかユーザーデーター収集で変換候補を学習しているから悪貨が良貨を駆逐が起きる。