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2010-06-30

それとも文化水準が生活水準を押し上げるなんてことがあるんだろうか

民度とはある地域に住む人々の、生活水準文化水準の程度だそうだ。

また生活水準とはある社会階層の平均所得から得られる財貨やサービス多寡もしくは労働条件・雇用機会等の労働環境社会保障教育などの公共サービス公害治安などの生活環境によって測定される。

文化水準となると話がまたややこしくなる。文化の程度。特に、ある地域社会文化総体的なレベル。この定義は、文化とは何たるかという問いから逃げて居るので何の意味もなしていない。

しかし総体的なレベルとあるから、人間社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体、のほうの文化のことだとわかる。

長くなったが話を戻す。民度が高いとは、ある地域にすむ人々が所得から得られる財貨やサービスが多く、労働環境が良く、公共サービスが充実して、安全な生活が送れ、かつその地域社会の成員が共通してもつふるまいのレベルが高い、ということだ。

「民」という文字が入っているのでどうしても文化水準の方にばかり目が向いてしまうが、民度の問題には社会環境の問題が多分に含まれている。

文化的水準の高さは非常に大切だが、これは社会環境侵害してはいけない。身の安全こそが最優先されるべきものであるからだ。身体の安全を保障されることこそ民主主義社会において一番大切なことである。これを冒してまで言論の自由を認めることはあってはならない。生活水準の低下は文化水準の低下に先立つからだ。

しかし、高度に洗練された文化芸術の類はどうであろうか。ギリシャでは遺跡が度々発掘され、これらを保護するため宅地開発が進まない。オーストリア芸術文化に多大な額の国税を投入している。

これらの国民文化芸術保護のため、社会保障をあきらめているのかは不勉強なのでわからなかった。だが、少なくともこれらの文化財を手放すか、国が関与をあきらめればその分、公共事業が充実することは間違いなく言える。

日本国政府はいわゆるオタクカルチャーを振興しようとするような動きを見せている。一方で規制が強まる言論も増えている。この動きは「世界に誇れるハイカルチャー」として世界に売り出せる文化芸術に相応しくなるための矯正なのだろうか。まぁそこはどっちでもいいんだが、問題は、これらの(高度な)文化は、生活水準を脅かす権利を持つのだろうか。生活水準に生活環境という要件が組み込まれている。現在オタクカルチャーは支持を伸ばしているものの一般的に評価を得ているとは言い難い。オタクカルチャー嫌悪を感じる人にとっては生活環境が悪化しているのだ。公共の福祉のためなら幸福追求権は侵害されうるが、もし日本政府文化振興を政策として行ったら、彼らの幸福追求権は侵害されてしかるべきか。

高度な文化でなくとも問題はある。ある社会の成員の多くが「性犯罪は起こるものだから、自己の安全管理は徹底すべき」と思っているなら、その社会民度は安全な生活が脅かされることを容認する程度に民度が低くないだろうか。ただ、「窃盗は起こるものだから、自宅の施錠は徹底すべき」は、民度の低い社会と言えるのだろうか。

とくに文化水準について民度の低い社会は何か問題があるのだろうか。

私はもともと高度な文化も一般文化も水準が上がるよう努力すべきだと思っていたが、経済が圧迫されてくるとこの考えは民度の高い社会でこそ通用するのではないかという疑問がわいてきた。

そして日本民度の高い社会には相応しくなくなってきていると感じるようになった。どちらが正しいということはないのだろうか。

2009-10-30

http://anond.hatelabo.jp/20091030212901

音楽にたとえてるけど、それは一体どんな音楽ハイカルチャーの話題なので現代音楽を想定して読んだら、相当戸惑った。どんな楽譜をどんな楽器で弾いたかがまず最初の前提にあるのだから、音符にならなくて曖昧無限な音なんて、正しく正反対だよね。

音だってだけでそんなに謎めいていたら、いつまででもロマン派でやってられたんだろうなあ

2008-12-03

東浩紀の『存在論的、郵便的』に浅田彰が寄せた言葉

東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。もちろん私の世代の「ポストモダン知識人」もサブカルチャーに興味をみせはしたが、それはまだハイカルチャーサブカルチャーの垣根を崩すためのジェスチャーである場合が多く、サブカルチャーに本気で情熱を傾けるようなことはなかったと思う。20歳代半ばも超えて、自室にアニメポスターを張り、アニメ監督(註:庵野秀明である)に同一化して髭までのばしたりするような人間ハイカルチャーが崩壊し尽した後の徹底した文化的貧困の中に生まれた正真正銘の「おたく」が、それにもかかわらず、自分では話せないフランス語テクスト執拗に格闘し、しかも読者に本気でものを考えさせるような論文を書く。それはやはり驚きであり、その驚きとともに私は「構造と力」がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである。この「おたく哲学」が「哲学おたく」とはまったく非なるものであることは、東浩紀の今後の活躍が証明していくことになるだろう。

(『批評空間』II-18編集後記1998)

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