はてなキーワード: 自己啓発書とは
これだけ共感する人がいなくて、仕舞いには現状に対して嘆いているのを「ノスタルジーで過去を美化してるだけでは?」とまで言われるとは。
自己啓発書の売れ行きを根拠に今も自己啓発に関心が深い人が多いよなんて言ってるけど、
少なくとも言えるのは、自己啓発を高いレベルで実行してる人は明らかに減ってるってこと。
能力開発系のスクールの生徒は軒並み減っているし、2ch生涯学習板も閑散としているし、ネットで能力開発系で盛り上がってる場所が今はこれといってない。
こういった過疎的と言って良い状況は10-5年前には考えられなかった。
いや、本なんて自己啓発書やハウトゥー本しか売れてないじゃん。
ランキング見たことある? ビジネスマン向けの雑誌なんてそれ系の特集ばっかだよ。
八十年代なら努力がバカにされてるって感じだったけど。
今は小泉改革後の新自由主義のサバイバル世界だし。みんな資格取るのに必死だよ。
何で意識が低いと思ったの?
ほう、それは新しい観点だな。
ベストセラーのコーナーの多くが自己啓発書で占められているから、今の世間の自己啓発書に対する関心は低いわけではない、ということか。
どうなんだろう、以前と比べて。
冬の時代と言われて久しいが、人々に真面目に努力しようという気概は感じられないのはどういうわけか。゛
働かず引きこもってる人や仕事はそこそこに享楽的な生き方をしている人。彼らに成長しようという明確な意志はあるのだろうか?いや、ないだろう。
具体的な有効策を見いだし継続的に実行しているものは、ごくわずかである。
中には愚直な努力家がいるにはいるが、そういう愚直な努力家が泣きを見るのもまた冬の時代である。
「泥のように働いて」愚直な努力をするのではなく、より効果的な努力の投入の仕方を模索すべきだ。必要なのは「スマートな努力」。
だが、そういった考えは一般人の口からついぞ聞かれたことが無い。
「努力は程ほどにして人生を楽しむんだ」と言っていた友人は今、程ほどしか努力しなかったせいで研究者の道を断念せざるを得なくなり、
一流大学卒でありながら平凡な民間企業で高卒の人たちと同じ仕事をする毎日である。これは本当に彼が望んでいたことなのか?
そういう人が実に多いのである。
どこかの本で「切れ味の甘い包丁を研ぐことをしないままひたすら目の前を魚を切っているような人が実に多い」と言っていたが、まさしくその通りだと思った。
問題は明白である。成長しようという明確な意志がないのである。
人間は様々な点で成長することが出来るので、RPGで言うステータスは100個どころかもっともっとある。
人生のいろんな場面に遭遇するたびにどういったステータスが絡んでくるか洞察できれば、そのステータスを鍛えようと思えるが、
それが洞察できないから鍛えようという発想自体沸かないのである。
先ほどの喩えで言えば、「魚を切るのに包丁を研ごうとは思えても、体力を鍛えようとか集中力を鍛えようとまでは思い至らない」のだ。
さらに、周りにスマートな努力をしている人がいない事や自己啓発書を読まないことも、愚直な努力しか出来ない大きな原因になっている。
愚直な努力家当人にしてみれば必死に生きているつもりだし、愚直な努力をしたくてしているのではないだろうが、
自分の愚直さに気づくだけの余裕が、悲しいことに無いのだと思う。
それでも漠然とした不安だけは大多数の人が抱えているようで、出来ることならば自分を成長させたいという漠然とした思いは持っているようである。
けれども、具体的な目標もなければ成長することにエネルギーを集中させようという気迫もないので、
「自分を成長させる」という課題に対するアプローチがどうしても甘くなってしまう。
私のところにもよくネットでちょっと調べれば分かりそうな質問が来るので閉口してしまう。
人に聞くよりも、疑問が発生したらすぐ自分で調べ、そこで新たな疑問が発生したらまた調べる、ということを繰り返すほうが効率がいいだろうに。
彼らは効率よりも快適さをとっているのだろう。楽して得をとろうとするのは悪いことではないが、ちゃんと状況が見えてないとかえって損することになりかねない、という良い教訓だ。
18:45追記
本読めなんてそんなに強く言ってるか?むしろ本にとらわれるなという考えだ。
誤解してる人があまりに多いので補足。
自分は今日本で一番恵まれた引きこもりなんじゃないかと思ってる。
今年は彼女ができたし、それがキッカケで引きこもりの方もだんだん良くなっているんじゃないかと思う。
今まで自己啓発書読んだりして一人で色々頑張ろうとしたけどどれも続かなかった。
今は確信して言える。人との出会いが自分を変える最良の方法だ。
あんまり詳しく書くと彼女もはてな見ているんでバレそうなのでやめる。でも、自慢させてくれ。
引きこもりだけど彼女ができた。彼女は今日と明日は仕事だけど25日は一緒に過ごす。こんな引きこもりっている?
あるSNS(非モテSNSじゃないよ)で顔出しして小まめにコメントつけたりして・・・。
引きこもりだからお金なかったけど彼女に言われてスカイプ用のマイク買ったりしたんだ。
それに彼女とリアルで会う口実が欲しくてネットの試写会抽選に送りまくった。
彼女とは趣味が合うし話していて楽しい・・・たったそれだけだけど本気で好きになった。
でも、彼女の方が年上だからジェネレーションギャップもある。それを埋めようと頑張った。
で、一回目はチケットが余ってるから・・って口実つけてデートしたけど二回目からは向こうから誘ってくるようになった。
彼女からデートに誘われる引きこもりっている?俺は幸せな気持ちでいっぱい。
大学生活を楽しんでいる同年代に引け目を感じていたけど今はそんなのない。
彼女がいるから。それも非モテが妥協の末にブスと付き合うとかじゃなくて彼女はめっちゃ可愛いし眼鏡っ子のぽっちゃり巨乳。
今はお互い発情期で会うたびにエッチしてる。比べられないけどぽっちゃりしてた方が抱き心地いいとおもう。
・「努力しているかどうか」「頑張っているかどうか」「やる気があるかどうか」は、全て上に立つ者の主観や匙加減で決まる。
・全ての評価は「何を言ったか」「何をやったか」ではなく「誰が言ったか」「誰がやったか」で決まる。
・結果の出ない努力は全て「努力が足りない」または「努力の方向性が間違っている」で切り捨てられる。
・努力とは博打である。何年も続けないとその努力の方向性が正しかったかどうかはわからない。
・「仕事ができる人」とは、器用で要領の良い奴か、自分の適性や才能に合った天職に巡り会えた幸運な奴のどちらかである。
・誰しもが自分の適性や才能に合った職に就けるとは限らない。だが、全く合わない職に就いてしまうと悲惨な人生を送る事になる。
・不器用な奴が努力や訓練を重ねても器用になれるわけではない。 特定の仕事を何年も経験を積んでできるようにはなっても、新しい仕事をやらされればまた不器用レベルからやり直し。
・努力の方向性が正しいかどうかは運や時流によって決まる。
・仕事における行動が正しいかどうかは上役の主観や匙加減、もしくは運によって決まる。
・努力の過程が褒められるのは小学生だけ。社会に出たら結果の出ない努力は全て無意味である。
・カメがいくら頑張ってもウサギのようにはなれない。
・一つの物事に夢中になると周囲が見えなくなる気質は、サラリーマンにとって最悪の致命傷である。
・「これが一流の社員と二流の社員の違いだ」といった記事は、ビジネス雑誌の定番である。しかし、二流の社員がその記事通りに一流の社員のやり方を真似ても、一流になれるわけではない。一流と二流以下では、仕事のやり方云々以前に人間としての基礎的スペックからして違うからである。
・「強い会社の作り方」のような本は巷に溢れているが、単なるネタ本として考えるべきである。たかだか千数百円の本で会社が助かるなら、倒産する企業など存在するはずがないのだから。
・仕事の能率を高める方法などのビジネス書や自己啓発書は、元々が器用で要領が良い奴が、同じように器用で要領が良い奴向けに書いたものである。
・「石の上にも三年」という諺は会社では通用しない。三年も待ってくれるような気長な会社などないのだから。
・「見ている人は見ている」とは、真面目にコツコツ働いていればそれをわかってくれる人はいるという意味ではなく、不器用な奴や要領の悪い奴がずるい事をすると必ず見つかる、というのが真の意味である。
「勝ち組」の代表格に勝間和代という人がいる。いや、別にこの人だけを槍玉に挙げるつもりはないのだが、あまりにもわかりやすかったので。
やたらとポジティブな自己啓発書を次々と出しておられる方だが、やっぱりこういう人だったか。以下の記事の末尾を参照。
座右の銘は、「起きたことはすべて正しい」。
来たよ来たよ。要するに "This is the best of all possibile worlds" というやつですな。何百年も前に使い古された「最善説」というやつです。本を月に何十冊も読む(上記記事参照)のなら当然ヴォルテール「カンディード」なんて小説なんかも読んでるんだろうね。フランスなんかだと古典の教科書として国語の授業で教えられるような本ですよ。もう一度読みなおすことをお勧めしますよ。この方が既に以前に指摘していることですが、もう一度書かねばなるまい。
この「カンディード」という小説のなかにこんなくだりが出てくる。d:id:hokusyu:20080112から孫引き。
ジャックという商人の、戦争や財産を巡る争いを見るに人間は自然を堕落させたのではないか、という質問に、パングロスはこう答えます。
「そうしたことはすべて必要不可欠だった」と片目の博士はすかさず言い返した。「個々の不孝は全体の幸福をつくり出す。それゆえに、個々の不幸が多ければ多いほど、すべては善なのだ」
ちなみにジャックはリスボン沖で溺死するのですが、パングロスは「リスボン沖の停泊地はあの再洗礼派の男(ジャック)が溺死するように特別につくられたのだと証明」するのです。
もはや説明は不要であろう。これほど「勝ち組」のネオリベ思想を的確に風刺した表現はそうないのではないのだろうか。
ちなみにこの「カンディード」という小説は、このパングロスを天才的哲学者と信じて馬鹿正直に信じたカンディードという純朴な青年が、世の不条理と師の教えの間の葛藤と戦いつつ、幾多の悲惨な体験を乗り越えて精神的自立を達成するに至るまでの物語、というわけなのだが、この小説が書かれたのは二百五十年前なのである。努力によって自分を向上させることが大好きな「勝ち組」の頭の中身というのは、どうやら二百五十年間進歩しないものらしい。
さて、上に引用したくだりをもう一度読みかえした上で、ロスジェネに関するこれにはじまる話題、たとえばこれとかこれを読みかえしてみてほしい。あまりにもこの小説と構図が似ていないだろうか。このような形で見せられれば誰でも、「自己啓発」の限界と馬鹿馬鹿しさに気付くのではないか。結局「自己啓発」というのは世の中の仕組みを全て肯定して不問に付した上で「全ては自分次第でどうにでもなる」という、あまりにもナイーブな思想なのだ。もうそろそろいい加減そのことにみんな気付いてもいいのではないか。
この小説の結論では次のようなことが語られる。あまりにも単純で、まともな大人なら誰でもわかっているはずのことだ。
正直者が報われるとは限らない、全てが必要不可欠で正しいなんてことはあり得ない。世の中は理不尽で満ち溢れている、しかしその中で自分なりに細々と努力して生きていくことこそが唯一の「人生を耐えられるものにする手立て」だということだ。そして、そのことについて他人がどう論評しようとも、すべてはどうでもよいことなのだと。
言いかえれば、「自己責任」だとか「自己権利」なんてものはどこにも存在しないのだ。健康と環境と才能と努力と時の運、それらを全て兼ね備えたときにだけ「成功」ができるし、「責任」があるとすればその「努力」の部分だけだ。それに、その「努力」さえも、「健康」と「環境」がなければどうすることもできなかったりするものでもある。その辺の複雑なことは自分にしかわからない。一般的に「負け組は努力が足りないから自己責任」なんてことが言えるはずもないのだ。
なんでその程度の平凡な理屈が誰の口からも出てこないのだろう?自己啓発自己啓発といって騒いでいるはてな民は、自分の努力だけでなんでも解決できると思ってるのだろうか。だとしたら随分、挫折を知らないお坊ちゃんお嬢ちゃんだとしか言いようがないのだが。
ちなみに「ルサンチマン乙」と言われないために言っておくが、俺自身はどちらかというと「勝ち組」に属する人間だし、才能のない俺にとっては努力だけが切り札だったことは理解しているつもりだ。しかしそれでもなお、いやそれだからこそ、努力だけで全てが解決できるなんて素朴すぎる発想にはとてもついていけないのだ。