はてなキーワード: 国歌斉唱とは
現時点での拙の感想。
そもそも○○式などというものは参加者を所属するものへ無条件に従順に従わせ、帰属意識を高めるための儀式的なイベントであり、極めて反動的である。
よって卒業式などという反動的なものを執り行う事に反対しないどころか出席してしまう事がそもそもの間違いなのであるッ!
さて参加したい反動的な輩だけが参加すればよいという折衷案を提案する愚か者がいるかもしれないが断じてまかりならんぞ。
帰属意識を高めるための儀式はその組織に所属するものが原則全て参加する事に意義があり、参加しない者はあくまでも迫害されるべき異端でなければならない。
普通にサボってる奴?そんなもんいずれ簡単に何かに従属させられるだろう。
結論:自由参加はあり得ん。
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1194324075/
★国歌で起立せず、国旗に背を向け 北海道文化賞受賞者 ・北海道教委が5日、札幌市内のホテルで行った北海道文化賞贈賞式で、壇上にいた 受賞者の1人の演劇演出家、鈴木喜三夫氏(76)と夫人が、国歌斉唱の際いったん 起立したものの、国旗に背を向けたまま自席に着席し斉唱に参加しないという一幕が あった。 (略) 式典後、鈴木氏は「先の戦争で多くの仲間が特攻隊として死んでいった。とても立って (国歌を)歌う気になれない」と語った。
この記事に対するレスを見るとやはり日本は右翼化していると思わざるをえない。
実際に戦争を体験し、その体験がゆえに君が代を歌えなかった人に対して
「ボケ爺乙」「日本から出て行けばいいのに」「こういう馬鹿は竹島に島流しでいいよ」
などという誹謗中傷が目立つ。
君が代を生徒に歌わせた教師の言葉は、決断をうながすテンプレとして使えそうだ。
原文
http://anond.hatelabo.jp/20070416221255
応用例。
「テレビ番組を見ている途中でチャンネルをかえるのはよくない。騒がしい。中途半端な気持ちや、みんながかえているからといってチャンネルをかえるのはよくない」
「パチンコの途中で台をかえるのはよくない。騒がしい。中途半端な気持ちや、みんなが台をかえているからといってかえるのはよくない」
「カレーを食べている途中で水を飲むのはよくない。見苦しい。中途半端な気持ちや、みんなが飲んでいるからといって飲むのはよくない」
「セックスの途中で膣外に射精するのはよくない。男らしくない。中途半端な気持ちや、みんなが出しているからといって出すのはよくない」
「核開発している途中で六カ国会議に出席するのはよくない。愛国心が足りない。中途半端な気持ちや、みんなが核軍縮に参加しているからといって核軍縮に応じるのはよくない」
http://anond.hatelabo.jp/20070416183656
これはどこの地域でもあることだろうけど、学校行事・式典で国家を歌わない。
小学校卒業間近となったある日、教師達は口々に「歌いたくないなら歌うな」と言ったり、「私達(教師)は歌う事を強制されている」と被害者ぶった口調で言ったり。
卒業式では、「国家を斉唱します」→「起立してください」→「国家斉唱」という流れだったから、歌おうという人は立たねばならなかった。
歌うために起立した人には当然冷たい視線が送られたわけですけども。
それ以前に、「歌いたくなければ立たなくていい」と教師に言われていたので、立つ生徒は皆無に等しかったのを覚えています。
自分のときは小渕が首相だったかな、なのでこのエントリーを書かれた方と同じ年代だと思うんですけど、
滋賀県の某市立小学校に在籍していた僕は君が代斉唱のときに愉快な経験をしていて。ちょっと書き込みたくなったので増田にぽちっとな。
??????
――この方と同じように、僕の小学校でも卒業式のリハ前に、教師が君が代っつーか戦争の歴史を語って、「歌いたくないなら歌うな」ということを言っていた。
5年生の時だったか、1時間ぐらい割いて学年集会としてそういう「平和教育」をした記憶がある。
ただし、「国家斉唱」するときは「起立してください」がその前になく、ずっと立ちっぱなしだったので、
国歌をうたわないという意思表示をするには「立たない」ではなくて「座る」ことをしなければならない。
これがクセモノで、「歌うために起立」すると目立ってしまうけど、「歌わないために座る」ということは、
立っている人の中に埋もれるということになるので、まったく目立たない。
というか目立つ目立たないはどうでもよく、当時純朴まっしぐらだった小学生たちは教師たちの言うことを頭のてっぺんから足のつま先まで信じ込んでしまった。
そして卒業式のリハーサル。「国家斉唱」と言ってまず座ったのが全体の1割(ちなみにこのなかに僕も居た・笑)、そしてそれを見て
立っているのが恥ずかしいと思ってしまった残り9割の一部が、斉唱中にばたばたと座ってしまった。
結局、歌い終わるまでに3割ぐらいが着席して、かなり慌しく騒がしいリハーサルになった。
リハーサルが終わったあと、先生が国歌斉唱について苦言を呈した。
「国歌斉唱の途中で座るのはよくない。騒がしい。中途半端な気持ちや、みんなが座っているからといって座るのはよくない」
みたいな注意だったと思う。
「中途半端な気持ち」。確かに座ったほぼ全員の人が「中途半端な気持ち」で座った、のだろう。
戦争の被害が??とか言われてしまって、悪いレッテルを貼られたらそりゃもう、歌う訳にはいかないし、何より教師にとっていい子であるために、僕は座ったんだ。
だけどもし、今その時に立ち返って教師に質問できるとしたら、子供がそんな「硬い意思」を持てるのだろうかと僕は反論したい。
子供がそんな強い意志を持っていいのか。子供に覚悟決めさせることが教師の、大人のすることなのか。
子供は未熟で、あやふやな存在だ。だから大人を見て育つ。その為に教師たちのいる学校にも行く。
大人の模範である教師に「君が代には血塗られた歴史が??」みたいなことを言われたら、誰でも不安になってしまうんじゃないだろうか。
不安という予感はあやふやで不確かで、つまり「中途半端」な気持ちだ。
ホームルームで僕は思った(もちろん↑みたいなかしこまった考え方じゃなくて、なんとなくもやもやとした気持ち悪さを感じていただけだが)。
「中途半端な」存在に押し込めた責任は、先生たちにあるんじゃないか、っていうことを。
結局、当日の国歌斉唱では誰も座らなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20070331165622の方曰く:
しかし、それ(引用者註:批判的思考)は残念ながら教育現場に降りてこない。なぜかというと、一つにはおそらく日本の教育システムの問題があると思う。要するに「生徒が教師の言うことをクリティカルに捉えるようになったらいろいろ困る」からだ。
うん、現状としてはそうだよね。
国歌斉唱に際して不起立で通した教員に対して、「思想信条の自由と言って規範に従わない教員が、生徒を規範に従わせることができようか」という批判が出ていたのを思い出した。「生徒が『思想信条の自由でしょ』って授業中出歩いてたらどうするんだ?」みたいな。
だけど私は、「生徒からの批判に耐えられずして何が(教育|学校|教員)か!」とも思うわけ。私はフィンランド厨なのでフィンランドの国語教育をつい引き合いに出してしまうのだけれど、フィンランドの教師は生徒に「なぜそう考えるのか?」としつこく訊いて来るそうだ(いわゆるmiksi?)逆に言えば、教師はいつ反撃に遭うかわからない。ちょっとでもいい加減なことを言えば、生徒から「なんで?」と聞き返されることを覚悟しなければならないし、理由を答えられないような行為を生徒に行ってはならないようになっているのだろう(確認してないので憶測。もしそうでないとしたら私はフィンランドに勝手に失望する)
翻って日本では、いまだに「子どもに規範を叩き込め!」みたいなスタンスが優勢な気がして、そのあたりどうも気が重い。ヒットを飛ばした藤原正彦の『国家の品格』でしたっけ、「ならぬものはならぬ!」とか言ってたけど、つまり「なんで?」を強権的に封じ込めてしまっているわけで、非常にもったいないというか危険。確かに「なんで?」に答えるのは面倒だけどさ。考えずに従えばいいっていうのは、もし従う相手が間違った道を歩いていたら、諸共に崖から落ちることになるわけだから。それだったらむしろ、「自分の道は崖に向かっているのではないか?」と考えられる方法を授けるべきだよね。
(註:フィンランドの躾がどうなっているのかはよくわからない。幼児に対しては日本より厳しいかもしれない。宗教についても勘案が必要。しかし、ある程度の思考力がついてくる10代や成人に対しても「規範を叩き込め!」になってしまいがちな日本をこそ問題にしたい)