「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」
これは不寛容だ、と機械判定できないところに限界を感じる
不寛容判定するのは結局個々の人間であり、恣意性が生まれてしまうのだろうな
寛容であるために自己の判断で時と場合によっては不寛容になるべきだということになってしまうと、不寛容を行使する人は義憤や正義の快感に酔っているモードになりかねない
それは結局不寛容が行き過ぎてしまって不寛容な社会になってしまって、別の人から不寛容判定を受け不寛容に……
あれ?ということはこのロジックは自浄作用があるのか
やるじゃんカール・ポパー
Permalink | 記事への反応(0) | 11:59
ツイートシェア