「相手や周りのために」察することは、大変すばらしくどんどん実践すべき。
これが本来の意味なのだろう。
ところが「私の考え・意向を」察した行動をせよ、という文脈で使うから、違和感を覚え、単なる自己中心的な傲慢にしか思えないのだ。
後者の場合、察するではなく「察せよ」とでもいうのがふさわしそうだな。
自分の都合よく既存概念の本来の意味や意義を捻じ曲げて用いる、まさに傲慢そのものだ。
Permalink | 記事への反応(1) | 14:23
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