大好きだったり熱中してたりすることがあったとして、なんでもいいんだけど、仕事、恋愛、友人関係、子育て、お酒、そんなようなもの。それで考えるのが、それらに対する感情や態度って、本当に偏愛とか熱中といえるものなのか、偏愛や熱中ということにした「ふり」なのか、ってこと。
生活と真正面から組み合ってみても、そうしなくても、空虚であることに変わりはないと思うのです。だから、そういう刺激を相手に偏愛したり熱中したりしたふりをして、生活と組み合うのをやめてみたり、組み合うんだけど空虚さは横から眺めたりする。それであるとき、そんなことをしてる自分にふと気付いたりすると、さみしさがしみこんできて、それがまた別な刺激に目を向けさせるようになる。
私だけなのかもしれないけれど、人間、そんなふうにして、だましだまし、ずーっと生きてきたのかなって、でもそれでうまくいってるみたいだから良いのかもしれないし…なんてことをちょっと考えている。