「結果が出なかったこと」が悪い。
黙っていればふてくされている。
何か言えば言い訳。
切れたら逆ギレ。
「結果が出なかった」という呪いが、その人の人格を汚染するように我々は感じるのです。
スポーツに限らず、ある規範によって優劣が付くシステムすべてに通有の現象。
学歴なんかもそうでしょ。
理系大学院修士。エウレカセブンを見ているが、どうも、こういうSFを見ていると、無性に腹が立つ。最初、何で腹が立つのかわからなかったけど、ようやくわかったわ。
SFの世界では、主人公の「気持ち」で世界が変わる。実際の科学では、自分の気持ちなんて関係ない。科学にあこがれようが、科学で世界を変えたかろうが、いい論文を書きたかろうが、いい実験結果を得たかろうが、自分の「気持ち」とは関係ない。
関係あるのは、論理的に正しいかどうかだけだ。それを支えるのは、才能と金と環境だ。
SFを見ていると、「いい加減、こういう幻想を子供に見せて、科学に夢を持たせるのはやめろ!」といいたくなる。結局、科学っていうのは一部の優秀な人間だけのものなのだ。優秀な人間が頭が悪い人間をあざ笑うための道具に過ぎないんだ。頭の悪い無能な人間は、優秀な人間を恨み、羨みながらも、彼らが論理的には正しいことを言っていることを認めなければならない。嫉妬と憎悪というのは、科学に最も似合う言葉だと思う。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
それでも、論理的に正しいものは認めなくちゃいけない。その恨みと嫉妬とやりきれなさが科学の美しさだと思う。SFでは、年端もいかない少年が、世界を救ったりするけれど、そんなヒーローは科学には、ごく一部しか存在しない。ヒーローになりたい人間は、科学者以外のものを好きになるべきだ。科学者はヒーローではない。
まぁ、嫌だったらSF見なきゃいいんだけどさ。こういう幻想を見ていると、憎悪がふつふつと湧き上がる。
追記:
なんだか、まとまりなく、てきとーに書いてしまって申し訳ない。
要するに言いたかったことは、「子供に下手に夢とか希望とか熱意とか見せんじゃねぇよ。世の中挫折する人が大半で、夢とか希望とか強固に持っていると挫折するのが辛くなったり挫折を認められずに時間ばっかりたっちゃったりするぜ」ってことなんだが・・・それってSFと関係ないよね、うん。エウレカセブンにも直接関係ないのだから、言及すべきでなかった。申し訳ないなぁ。
作品としてみると、エウレカセブンは洗練されていていい作品だと思うよ。
エウレカセブン見ながら、あ、この部分的に似ていると思った作品:
まぁ、比較しちゃうよねぇ。人とロボットが精神的につながらないとうまく動かないという発想とか、いざとなったらロボットの方が意志をもって助けてくれるところとか、後は一部のグロいシーンが似ているな、と思った。が、似ているなと思っただけで伝えようとしているものは全然違うと思う。
最初のトラパーの波を読むエウレカ→風を読むナウシカ、レントン(技術者)→アスベル(工房の街ペジテの王子)、対応そのままやん、と最初に思った。
惑星が意志を持っている点とか、抗体コーラリアンとファントムとか、似ているなぁ、と思った。
星に知性があって、死んだはずの姉さんや父さんが表れるというのは、惑星ソラリスだろ。エウレカセブンは、一言で言うなら「スカブコーラルによって地球が惑星ソラリス化する話」なんじゃないかなぁ。
七夕の国
この作品は知っている人、すごい少ないんじゃなかろうか・・・マンガ「寄生獣」の岩明均のマンガ作品。抗体コーラリアンが出た時に、建物や人が材質に関係なく球状に穴が開くシーンがいくつかあるけど、これ見たとき、「七夕の国」だ!!と思った。いや、似てるってだけで、参考にしているとは思えないが。
http://tod.cocolog-nifty.com/diary/2006/04/post_6919.html
この感想、すごい。俺も、理系ならこういう簡潔な感想が書きたかった。
まだまだ、誤解しているところが多かったなぁ。
ちょっと理解がおかしかったところがあったし、変にエウレカセブンに言及して申し訳ないなぁ、と思っている。
疑問なんだけど
なんで「言い訳」は「かっこわるい」と思うの?
ていうか「言い訳」って何ですか?
前から疑問に思っているのです。
どうして皆、当たり前のように「いい訳すること=かっこわるいこと」って思っているのかなって、考えてみれば結構不思議な話じゃありませんか?(そもそも、かっこ悪いということが、叩いていい理由にはならないと思うけど(ていうか認めたらブサメン・ブス差別が正当化されてしまう)まあそれはまた別の話だからさておき)
言い訳カッコ悪いっていう時、一体人は具体的にどのような発言を「言い訳」とするのでしょうか?
どのような発言を「言い訳」と定義し、そしてさらに、なぜ「言い訳」は「かっこわるい」と感じるのか。
なぜ「言い訳をしない人」がかっこいいと感じる人が多いのか?
考えてみればよくわかりません。例えば足を痛めたといったって、昨日眠れなかったといったって、それは、そういう事実があった、ということだけでは?事実を述べた事に対して不快感を感じる……「お前はブサイクだと俺は思う」と言われたら腹が立つというメカニズムと一緒でしょうか?(ブサイクなのが事実なのではなく思った事が事実)
言い訳ってなんで嫌われるんでしょうか。
はまちちゃんがホットエントリー量産機になっていてわらったよ。
http://d.hatena.ne.jp/Hamachiya2/20081228/anond
すごい確率だね。
いったい今年はなにがあったんだろうと、自分の書いたのを振り返ってログを斜め読みしてみたんだけど、ブクマ数50以上は3件ぐらいしかなかった。はまちちゃんって匿名になってもすごいのね。
しかし、自分。
ページ数からたぐるにこの1年で1300エントリーも書いているみたい。
書き過ぎだ。そんでもって確率悪すぎだね。ザクでごめんね。おかあさん量産型でごめんね。
ほとんどがみんなへのレスでにゃーにゃー泣いてるだけなので大した内容ないのゆるして・・・
ごめんねごめんね。
本筋とは関係ないんだけど、自分の投稿したエントリーで「あー」とおもった日記があった。
精神を病んだやつの観察日記なんだけど、記録ってつけていかないと変化に気が付けないもんなんだね。
まだ傍目にはおかしいけど、数か月前のこのころに比べるとまるで別人。
いまでも対応にたまに困るけど、それでもよくなってるんだなと思って安心した。
のんびりいこう!
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速度比(倍率): 1.355880
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OK
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S 一条武丸
A+ 来栖奈緒巳 高遠陸夫
A 榊龍也 緋咲薫 八尋渉 慈統享介 鳴神秀人 沢渡弘志 稲楽キヨシ
A〓 鮎川真里 一色大珠 鰐淵春樹 征那智 那森須王 天羽時貞
――――――――越えられない壁――――――――――――
B 鎖島直 千冬慎 陣野平蔵
夕方、むしょーにマグロの赤身が食べたくて仕方なかった。そして今、むっしょーに大トロが食べたい。中トロでもいい。ああ、トロよ。
しかしここんとこ、アボカドにわさび醤油でトロ!しか食べてなかったからか、先日久しぶりに本物のトロ食べたら「んん?」てなった。貧乏舌っていやーあね。アボカド大好きだけど。
あートロと醤油漬けのいくら食べたい。アボカドって書いちゃったから思いだしたけど、ヴィレッジヴァンガードダイナーのアボカドレイバーバーガーも食べたい。だめだ寝よう。
クリスマスは、というかクリスマスイブは、「すしくおーぜ!」「おうともよ!」ってノリになって、そのまま宅配寿司三人前たいらげた。
これ以上ない幸せが今は怖い。
年末の暇に飽かせてHDDに溜め込んだ動画からお気に入りのシーンを抽出して
動画版エロスクラップを作ってみたんだけど、この作業正直きついね。
5本くらい頑張った所でギブアップ。
絶対こんなの仕事にしたくねーと思いました。
う
http://anond.hatelabo.jp/20081229003249
有村悠
彼は常に最高のエージェントであり、新月お茶の会に忠節を尽くしました。
そして、最強の策士でした。
明日は大歓声でワッショイとなるのです。
今回の騒ぎは新月お茶の会をメジャーにして月猫通りを売るためのイルミナティが仕組んだ国際的な陰謀なんだよ!!
年に春夏冬と、暇を見つけては会っているのだが、毎回たわいもない話をしながら、ただ一緒にいるだけで楽しかった。
ただ、つい先日会ったとき、いや思えば今年の春夏からすでにそうだったのかもしれないが、なんだか妙にぎこちない。
なにか話題が出てもあまり盛り上がることなく、会話も途切れがちで、沈黙の割合が増えている。
沈黙が悪だとは思わないが、それでも以前より時間を共有していることに喜びを感じる度合いが薄くなった気がする。
それは私自身の問題なのか、大人になりつつある4人全体の問題なのか。
友情に対する疑問について、どちらに非があるのかなんていう考えはしたくないが、それでも以前とは何かが違ってしまった関係に原因を考えずにはいられない。
おそらく、両方の問題なのだろう。
私自身に関して言えば、以前よりも他人に対して抱く関心の度合いが低くなった。
かといって、自分自身に関心が向いているのかといえば、そうでもない。
全体的に精彩を欠いた心の具合だと、自分で思う。
それに加えて、仲のいい友達に対しても遠慮するようになってしまった気がする。
恋の話とか、大学の話とか、将来の話とか、昔は根掘り葉掘り聞いてたが、今となってはそうしたこともデリカシーがないかなと自縛してしまう。
デリカシーとかプライバシーとか、年齢を重ねるにつれてカタカナ用語に縛られていく。
もちろん、親しき仲にも礼儀あり、でそうした考慮もある程度は必要だけど、「デリカシーがないかな」とわかったような気になってカタカナ用語を
使ってしまうのは、どこぞの政治家のようで我ながら間抜けだと思う限りである。
今度、一緒に行こうね、と言って別れたが、はたして昔のように何も考えずに楽しく時間を一緒に過ごせるだろうか。