ニュースを見ていたら、アメリカのゴシップ紙の1面にブリトニー・スピアーズの妹(16)が大きく出ていて、アオリが
「私が大統領だ」
でナヌーと思ってよく見たら「私は妊娠してます」だった。
どっちでもいいやと思ったけどね。
正式公開&オープンのプレスリリースも出たので、新しいサーバを調べてみた。
% diff resolve.old resolve.txt | grep '[<>]' | sort < 221.186.129.147: counter.hatena.ne.jp. < 221.186.129.147: search.hatena.ne.jp. > 59.106.108.78: w.hatena.ne.jp. > 59.106.108.81: counter.hatena.ne.jp. > 59.106.108.82: search.hatena.ne.jp. > 59.106.108.84: h.hatena.com. > 59.106.108.84: h.hatena.ne.jp. > 59.106.108.98: w.hatena.com.
いつの間にか 221.186.129.144/29 がなくなっていた。
さて、w.hatena.ne.jp. と w.hatena.com. が違うのが興味深い。そして飛んでいるアドレスも興味深い。
ところで残っているqは移すのだろうか?
金?国立ならたかだか年間数十万だろうが。ボーナス一回分貯金すればよい。車の買い換えを一回我慢すればよい。なければ銀行から借りろよ。学歴にそれだけの価値を見出すならそれぐらいできるだろ?みんな奨学金借りてやってるんだよ。学生のときからな。その借金が後に回ったと思えばよい。
時間?週末にゴルフに行ったりアキバに行ったりするのを減らして勉強しろ。
たとえばSEなら、情報処理とかベンダー資格とかそういうつまらん試験を受けてる暇があるならそれをやめればいくらでも時間作れるだろうに。
学生時代から尊敬している人がいて、ある偶然からその人と知り合う機会があって、ド緊張しながら喋った。
緊張していたから何喋ったかもよく覚えてないけど、
気がついたらメールアドレスの交換してた。時計を見たら話したのは20分ほど。
10分もしたらさっきまでの高揚感は嘘のように消えて、いつも通りの、面白味のない日常に戻った。
本当に憧れの人とメールしてるのか?と疑いながら何度かメール交換した。
何だかよくわかんないけど気に入られたみたいで、食事に誘われた。
憧れの人と、マネージャーっぽい人と、自分の三人だけで。
憧れの人がテーブルの真向かいに座って、抱いていたイメージとはちょっと違った柔和な笑顔で話しかけてくれる。
本当に緊張しっ放しで上手く喋れなくて、頭の回転がいつも以上に鈍り、
イメージトレーニングで何度も吐き出した言葉だけは流暢に喋って、あとはどもりっ放し。その人と話してると、自分の閉塞した日常から、
開かれた楽しい場所へと連れていってくれるんじゃないかって気になって、まさに光といった感じの、希望を見せてくれる。
でも、その人と別れてまた10分ほどすると、高揚感は消えてまたいつもの自分に戻る。いつもの布団でくだらないことに悩みながら寝る。
その人と話していたことが、全然リアルに感じられなくなる。自分の妄想なんじゃないか、って。
確認の意味も込めて、お礼のメールを送る。返ってくる。でも、メールだと顔は見えない。本当にあの人が書いたメールか?
余計不安定で疑心暗鬼になってる。もうワケがわからない。尊敬してる人(有名人)と知り合った時って、誰でもこうなんだろうか。
「終わりなき日常」って言葉がある。「平坦な戦場」って言葉がある。20世紀も終りの四半世紀に生まれた僕等は、ジャスコ化 する郊外にまでモノが溢れる一方で、決して歴史が生を意味づけてくれない世界に生きてきた。モノが溢れるその一方で、物語のない「平坦な戦場」は延々と続 く。あるのはただひとつ残された自意識のゲームだけで、それはこの世界に生きる限り毎日繰り返される。そう、「終わりなき日常」は辛いのだ。
だが、本当にそうだろうか。
本当に日常は「終わらない」のだろうか。
この世界にあるものは、自意識のゲームだけが渦巻く「平坦な戦場」だけなのだろうか。
そんなわけはない。例えば人は、大人になる、老いる、そして死ぬ。「終わり」はかならずやって来る。そう、本来、「終わりなき日常」も「平坦な戦場」も 存在しないのだ。
この世界には「入れ替え可能」なものの方が実は少ない。「終わり」がある限り、「いま・ここ」は基本的に「入れ替え不可能」な唯一無二の時間なのだ。
だから「モノは溢れても物語がない」と嘆く態度は、ただの甘ったれた言い訳なのかもしれない。少なくとも、「終わりなき日常」幻想を打破する程度の可能 性は、この世界に溢れている。
テレビドラマ『野ブタ。をプロデュース』はそんな世界の豊かさを背景に、そっと背中を押してくれる優しい作品だ。
主人公の修二は、そんな「自意識のゲーム」を周囲の人間関係をメタ視することで(自分を「演じる」ことで)軽やかにクリアしている少年だ。彼は「平坦な 戦場」というゲームの有能なプレイヤーなのだ。
だが、彼は薄々だが気付いている。このゲームは、教室という狭い世界でしか通用しないルールに基づいて行われている。そして、このゲームを楽しんでいら れるのは、ほんの僅かな時間なのだ……。
修二は、ひとりの少女と出会い、彼女にゲームの楽しみ方を、世界の豊かさを教えていく。そして、やがて修二も気付いていく。このゲームの外側にこそ、本 当に自分を支えるものがあることを。それを手にいれれば、きっとどこへ行っても、どんなゲームに参加しても生きていけることを……。
「ジャニーズ主演の学園ドラマ」ってだけで「なんとなく<敵>のような気がして」嫌う人もいるだろうし、この「時間をかけてじっくりと豊かな人間関係を はぐくんでいこう」というメッセージを素直に受け取りたくない人って多いと思う。まさに、蒼井のように(笑)。
このメッセージは「身近な人間関係」っていういちばんリアルなところを突いている。だから、耳に痛くて逃げ出したくなる人の気持ちはよくわかる。
そういう人に限って「こんな処方箋じゃ俺の深い心の闇は救われないぜ」って「酸っぱい葡萄」パフォーマンスに走りがちだ。たしかにこうすると「楽」には 違いない。等身大の自分に向き合うことから逃げて、「自分たちは深い心の闇を抱えた特別な存在」みたいなナルシシズムを確保できる。でも、これって世界一 安直な道の一つだ。
だから、そんな人は胸に手を当ててじっくり考えて見て欲しい。蒼井が凡庸であったように、ここで「素直になれない人」という時点で凡庸なのだ(というよ り、「特別な欠落を抱えている自分」というキャラ売りが大流行したのが95年からのこの10年だったわけだ)。でも、それこそ「キャラ売り」をテーマにし たこの作品の手に平の上にいる証拠なのだと思う。「こんな処方箋では自分の欠落を埋められない」と思っちゃった人こそ、むしろ、この作品の射程内にある。
文化祭のクライマックス、焚き火を囲んだフォークダンスが催されている。輪に入って楽しそうにしている人もいれば、輪に入れずに寂しそうにしている人も いる。
本当はもっと他にやりたいことがあるのに無理して輪に入っているのが修二、輪に入りたくても入れずに指を加えているのが野ブタ、輪の周辺でひとり大騒ぎ しているのが彰、そして本当は輪に入りたいのに「あんなものくだらない」と「酸っぱい葡萄」反応をしているのが蒼井だ。
そして、この物語は0(無理して輪に入る)でも1(本当は入りたいくせに「酸っぱい葡萄」反応)でもなく、ほどよい距離を取れるようになっていけばいん だよ、それも時間をかけて、仲間と一緒にじっくりやっていけばいいんだよ、という優しいメッセージで背中を押してくれる。
だから、全国の「酸っぱい葡萄」反応しちゃう人はまず、この作品をきっかけに出来る範囲でいいから素直になる練習をしてみたらいいと思う。今すぐには出 来なくてもいいし、ひとりでやらなくてもいい。何年かかってもいいので、ちょっとずつ歩んでいけたらいい。
いや、今は「酸っぱい葡萄」をやっていてもいいのかもしれない。
でも、そんな自分が嫌になるときが必ず来る。
そのときにふとこの作品のことを思い出してもらえたらいいなと僕は思う。
誰にも言わなくていいのでこっそり「野ブタパワー、注入」してもらえればいいんじゃないかって、今はそう思っている。
それにしてもいつごろから伊集院を聴かなくなってしまったのだろう。
直接のきっかけは引っ越して、部屋の電波の入りが悪くなったからだったと思う。
それでもなんとか頑張って、その後1年くらいは聴いていたのだが、いつの間にか「こんな雑音を我慢してまできく事はないない」「こんな夜更かしして聴い ている価値はない」と思うようになってしまっていた。
なんだかなあ、と自分でも思う。
当時の僕は伊集院光のノリを日常に導入すれば、一生ゲラゲラ笑って過ごせると思っていた。そして、実際にゼロ年代前半はそうやって過ごしてきたつもりだ (笑)。でも、そうしている間にいつの間にか伊集院光を必要としなくなっていた。
本当にいつの間にか、当時「おしゃれ大戦」で僕をなじってきた電波は受信できなくなっていたし、伊集院が叩くものにも共感できなくなっていた。
でも、これでいいんだな、となんとなく思う。たぶん、今伊集院を必要としている人たちは別にいて、彼等には今の時代の流行りものから「おしゃれ電波」を 浴びているのだと思う。
伊集院は変わった、とみんな口を揃えて言う。確かにそうかもしれない。でも、それ以上にたぶん、僕等が歳を取ってしまったのだ。認めたくない事実だけ ど、たぶんそうだ。
だとすると、伊集院はまだ踏ん張っている方なのかもしれない。何に? ……たぶんそれが、みうらじゅんのいう「D.T」というものなのだと思う。
君には『心ここにあらざれば、視れども見えず』という言葉を贈ろう。
中2の頃は知識も経験も圧倒的に足りず、心もふわふわしてここにあらずの状態だから、真理を見聞きする好機であっても、その価値がわからないまま雲散霧消させてしまうのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20071219225747のブクマより。
学歴だって努力でなんとでもなるでしょうに。社会人大学院ってのがこんなにできている世の中なのに。医者でも弁護士でも研究者でもいくらでも転職できますよ。やる気と運があればね。
あのね、要するにそういうことなんです。「何を努力すればいいか」あるいは「努力する気力があるか」それが一番問題なんです。そこをクリアしている人は誰でも努力ぐらいできます。だから「努力しろ、しないやつは自己責任」なんて言ったって本当に無駄なんです。「学歴で努力しなかったお前らが悪い」とさんざん煽ってみたのはそういうことなのに、なんでみんなそこはスルーするのかなあ。わざわざ怒らせるような書き方したつもりなのに。
最後の部分をちょろっと見ただけだけど、
1988年に環境問題についてアル・ゴアに手紙を出したとか言って
何年に副大統領になって何年に本を出版して
2007年にノーベル平和賞を取ることが書いてあるとか言うけど、
ゴアの未来についての言及が2007年で止まってるとこから見て、
最近書いたのバレバレじゃん。
2043年に環境問題で大変なことになるけど
未来は変えられるから頑張りましょうとか言うけど、
じゃあ助かった未来を予知してこうすれば助かるっていう予言をしろよ。
しかし、この程度の詐術でも引っかかる奴なんていくらでもいるんだろうな。
こうやってムキになって反論するのだって、相手に箔を与えるようなもんだ。
プロレスみたいなショーとしてみるのが、正解なんだろう。
自分も意志が弱いので。
完璧主義なのだと思う。
ある程度かたまらないと動けない。
固まると一気にできる。
最初がわからないと止まったまま。
そのまますればいいとよく言われるけど骨格ができないと全部できない。
シロクマ氏がこんなに簡単に釣れるとは思わなかった。ブクマより。
つまりあなたは、その階梯を念頭において優越感ゲームをなさりたいわけですね。そしてそのお山の頂上に君臨することを理想としているわけだ。尊敬、して欲しいんですか?
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20071219225747
そのとおり、これは優越感ゲームというものですよ。ただし誤解めさるな、そのゲームを仕掛けてきたのはモテの側であって私ではありませんよ。私はただカウンターを一発返してやっただけのこと。ゲームから逃げようとするよりもゲームに負けない方が手近な手段だったからそちらを取ったまでというわけですな。
あと、こちらの増田氏はなんかずれてるんだよなあ。
さてあなたはどうだろう、高学歴と言う戦略を選んだようだが収益はあげられているかい?
こんなところで愚痴めいたエントリーを書いてるところを観るとそんなにうまく行っている訳じゃなさそうだ。
『リアルで充実』とはかけ離れた生活を送っていないかな?
低学歴モテは、『あなたがモテによって収益をあげられるのであればその努力をしろ』と言っているのである。
そこであなたが、学歴以外の手段で収益をあげることに成功している人間に向かって
たとえば鉄道会社にとって、飛び込み自殺が増えると大損害であるわけですよ。事故処理だけではなく、客足も遠のきますからね。これを改善するために必要なのは「サービス向上」とかではないでしょう。まずは飛び込み自殺を何らかの手段によって防止すること。そのためには国に働きかけてメンタルヘルス対策や失業対策などの施策を打って自殺を抑止するのも手段でしょうな。
この場合「飛び込み自殺」にあたるのが「モテの『努力しろ』攻撃」なのですよ。おわかり?収益が上がらないのは外部の環境が悪化したからであって、経営努力が足りないのではないのですよ。
それからもう一つ、学歴社会に延々と怨恨を撒き散らしている人間が「収益をあげることに成功している」とはこれいかに。それならば、私も恋愛以外の面では「収益をあげることに成功している」と評価していただいてもよさそうなものですけれどねえ。
よくある間違いなのでここにはちょっとマジレスしておきますが、これは全然違います。違うというかそんなこと誰が決めたと問いたい。あなたは多分「自然選択」という記述命題を当為命題とごっちゃにしているんです。「自然選択」というのはいうならば「生存能力を備えた個体が(統計的には)生存する」というようなトートロジー(というか自然科学の命題は性質上全てトートロジー)なのであって、「生存能力を備えることが個体の目的である」なんてのは余りにもひどい飛躍ですよ。
大多数の人はそんなの見ないのでは、目立つところで発表しないと。
まあ、黒字化したらニュースサイトがこぞって取り上げるでしょうが、たぶんそれでも見る人は限られるかなぁと。
anan-nct.ac.jp ってドメイン、どうなんだろう。
あれ?おかしいな。二つとも俺が書いたはずなんだけどな。
そういうのを全部知ってて煽ってる場合も多い。