邪魔だねー、トラックバックやらコメントやらの機能をつけたとたん、呆れるほどのスパムが飛んでくる。
悪いのはわかってるが、ああいうのは仕返ししてやりたい気分になるね、100%スパムなコメントが飛んできたら、そのIPにDoS攻撃するとか。
http://anond.hatelabo.jp/20070304174430
女が責任負うのは変なことかな?
とくになにか形があるわけじゃないけど、
この人を支えていける自信がないな、と思ったり…
たとえば、ことばひとつで振り回すことに対して申し訳なさしか生まれてこなくなったり。
謝る数が増えてきたり。
楽しいだけでやっていくには重たかったのかも。若かったか。
久しぶりに外に出てみるか…。
○○が無くても生きていける、というものはたくさんある。
しかし、それをなくしてしまうと、60億人もの人々が地球に暮らしていくことは困難になる。
なぜなら、その不必要な○○を生活の糧としている人々が少なからず存在するからだ。
この論理を広げてみる。
すべての人々ができる範囲で贅沢して生活すれば、すべての人々の生活水準が上がる。
いまいち関係なくて申し訳ないが、新しく何か作るのは良いことか、もう一度どのメーカーも考えて欲しいね。
新しいシステムを入れて大コケしたシリーズがありすぎる気がする。
【匿名】 - goo 辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C6%BF%CC%BE&kind=jn
自分の実名を隠してあらわさないこと。また、実名を隠して別の名を用いること。
【実名】 - goo 辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BC%C2%CC%BE&kind=jn
本当の名前。じつめい。
言葉の意味として考えれば、まさに「戸籍上の名前であるかどうか」だけの差。
名乗っている名前の違いだけであって、必ず「匿名発言=いい加減な発言」でもなければ「実名発言=信頼できる発言」という訳でもない。
例えば、過去の偉人によって残された数々の名言がその実名で出されず、ネット上の匿名発言として世に出たとしたらどうか。
内容は同じであっても、匿名であるというだけでその発言は評価に値しないものになるのだろうか。
偉人による発言とネット上の匿名発言に影響力の差があり、"評価されるかどうか"においては違いは出るのだろうけれど、
同一の発言内容が実名か匿名かによって"評価に値するかどうか"に差をつけるのならば、そうした評価をする発言こそ「評価に値するかどうか」に疑問を感じる。
確かに、実名か匿名かのどちらで発言するかによって責任の負い方などに差が出る場合もある。
匿名ならではの問題点も多く、それを改善する努力も放棄してはいけない。
が、「匿名=責任を負わなくても良い発言」が必ずしもそうでなければ、責任を負った発言が必ず評価に値する発言になるという訳でもない。
実名で犯罪を犯す人も多ければ、匿名で人の命を助ける事だって可能な場合はある。
匿名の問題点ばかりを指摘して、匿名でしか出来ない可能性を無視し、匿名という選択肢を奪う事を正しいとは思わない。
重要なのは「匿名であれ実名であれ、責任を持てる発言をする」事であって、「匿名であれ実名であれ、発言の内容が評価に値するかを考える」事である。
発言する人が全てではない、それを評価する我々にも正しい評価をする努力が必要である。
というような事を、匿名とか実名とかで検索したらいっぱい出てきた。
ネットって凄いね、話されていないことの方が少ないんじゃないかって思っちゃうよ。
実名匿名論も少し検索すればループしてる話題なんだろうな、っていうお話。
あとは、魔法の名前じゃない?
個人的にはあの名前だけはシリーズを通して評価すべきところだと思う。
英語ベースなのでいまいち魔法名として面白みがないのは仕方ないが、一般的で覚えやすい(変な4文字ルールのせいで最近覚えづらいのも出てきたが)。そのわりにはファイア→ファイラ→ファイガだの 強化版のインパクトはそれなりに表現できてる。
FFは何だかんだいってRPG史に残る存在だったと思う。ATBだのCTBだの、あれが考案してよそにパクられていったシステムは多い。
ただ、もう役目は終わったんだ、第一線(気取り)は止めるべきなんだと思う。
そういう意味ではもう(新規システム開発は)あきらめて、システムも世界観もあんまり変えずに晩年まで続投してもらったほうがいいかもね。
最後にやる「新しいことをやり続ける」は(いままで変え続けてきたFFが)変えることを止めることであってくれると、個人的にはうれしい。
SQUAREは「やることなすことスベってる」ということに気づかないほどのアホ揃いとは思いたくない。SQUAREとして、もっともふさわしい方法で「FF」というシリーズに花道を作ってやって欲しい。
だけど何か違和感を感じずにはいられない。
今や秋葉原は一種の観光地になり、本に関しては「となりの801ちゃん」や「腐女子彼女。」や最近だと「ぼく、オタリーマン。」なんかが普通に出版される時代になった。テレビでは萌えやメード(何故かメイドとは表記されないのが不思議)という単語や芸能人なんかでもオタク趣味を隠さない人が増えてきた。
でも何故か違和感を感じる。何でだろう。
これは仮定でしかなく、確たる裏付けもないが、今の時代のオタクと私みたいな20代後半以降のオタクは別の種類ではないのか、と思ったりもする。一体何が違うというのか。
俺らの時って 約10年前ってああだったかな?
あんなに屈託なくいれたか?
「オタク、かっこ悪い?」そういう問いさえ出なかった
「オタクは格好の悪い生き物だ」
数珠繋ぎの輪がぐるぐると回ってた気がする
まあ、質はどうあれゲームのようなものだととらえて問題ないと思う。
確かに人によっていい悪いはあるんだろうけど、やはり気の持ちようだろうな。
理不尽?ゲームに理不尽がないとでも?
しかしまあ、身体的問題があればクソというのはどうだろうな、それじゃあ、ドキュメンタリーで報道されてるような障害者はみんなクソゲーをやらされてるのか?
本当に本当にクソだと思うなら、止めてしまえばいいじゃないか、誰も止めやしないぞ?
惰性だろうがなんだろうがやってるなら楽しんでる証拠じゃないか。
昔は、哲学なんて頭の良い人たちがやってる頭の良い遊びだろ、くらいにしか思ってなかったんだけど、逆なんじゃないかと思うようになった。哲学って、世の中の常識というか基礎知識というか、誰もが持っている共通認識みたいなやつを成文化したものじゃないのか。議論の大前提となる知識、という感じ。数学でいうところの定理みたいなもの。それを知らないと計算できませんよ的な。哲学を知らないと議論できませんよ的な。哲学を熟知して初めてスタートラインに立てる。ということは俺なんてスタートラインにすら立てていないってことで。哲学ってすげー。いや、実際のところどうだか知らんけど。