ある事象について、抽象-具象に10段階の断面があるとすると、必要に応じて適切な抽象度の断面を用いて、別な事象への理解あるいはアクションに再利用できる。1つの事象から学習した要素を、別の10の事象にあてはめて再利用することが可能。それが優秀さだと思っていた。
この考えはそれほど間違っていないとは思うものの、それ以前の問題だと思うようになった。
ある事象に複数段階に抽象化できるだけの情報があるとして、それを全部(あるいはより多く)とらえることができるか?
ということが重要なのではないかと思うようになった。
ダメな人は認知している情報が少ない。注意して見ても、何度見ても、何時間見ても、どこから見ても、得ている情報が少ない。そして認知できない要素は、その人にとって存在しないのと同じだ。その人は抽象度を変えて再利用できるほどの情報を持たない。
捉えた事象の抽象度を変える(そして再利用する)ことは訓練すればできるようになると思う。でも、そもそも認知できない/情報を得ていないのはどうにもならない。この部分の能力を大人になってから向上させるのはほとんど無理なのではないかと思う。
そのうち、アップルやグーグルが「3歳児を雇うことにした」とか言い出しても驚かない。
#実際には優秀な大人を探すよりもコスト高いので実現しないだろうけど。
http://anond.hatelabo.jp/20141029000828 を書いてから相変わらずモヤモヤしていて、ちょっとだけ言語化の手がかりをつかんだ気がするので吐き出しておきたい。 でも、そもそも認知できない...