「便りがないのは無事な証拠」っていう慣用句があるけど、現代においては逆の意味になるんじゃないかなーって思った。
僕は首都圏に住んでいるのだけど、東日本大震災が起こってすぐのテレビで地震と津波のニュースを見たときに仙台に住む知り合いがすごーく心配になった。すぐに連絡してその時は連絡付いたんだけど、しばらくしたら連絡取れなくなった。
結局その知り合いは無事だったのだけど、連絡がとれるまでの3日くらいは死んだと思ってた。無事を願ったりは殆どしなかった。
関東に住む僕の知り合いも何人か福島とか宮城とかに友人が居たみたいだけど、無事だって知ったときに"死んだと思ってた"みたいな事を言っていた。
精神的には、無事を信じて(願って)連絡を待つよりは、死んだものだと思って連絡を待ったほうがもしもの時の精神的ショックが多少減るというのはあると思うのだけど、それにしてもだなーって。
いつの時代から言われ始めた言葉かは知らないけども「便りがないのは無事な証拠」って言葉が出来た時代と比べると連絡手段が増えて、いつでも気軽に連絡取れるようになったと思う。
手紙とかしか無かった時は、ちょっとした連絡も凄い手間だったと思う。俺だったらよっぽど良いことか悪いことが無ければ連絡しなかったと思う。それでも多分親は元気にやってるんだろうなーって思うんじゃないかな。
いまだと、気になったらとりあえずメールして、返信して。
今まで即レスだったメールが半日でもあこうものなら不在着信とか未読メールがもっさり溜まってる、みたいなことになる人も居るんじゃないかな。
この慣用句は心配してる家族を慰めるために使われてたと思う。昔はそう思わないとやっていけなかったんじゃないか? 浦島太郎だって、漁から帰らない息子はきっと楽しく竜宮城でく...