2009-02-21

狂人志向すること

昔、10歳ぐらいまでか、自分天才だと思っていた。結果として勘違いもいいところだったのだが、当時は僕のアイデンティティーであった。ろくに勉強しなくてもテストで点が取れるし、誰よりも手先が器用だった。やろうと思えばなんでも出来た。他人より自分が優れていることが嬉しくて、他人がやっていることを真似して、それを本人の前で超えてやろうと息巻いたりしていた。覚えている限り、僕はそれを容易に達成していた気がする。よく言えば向上心豊かな子だったのだが、その原動力は薄汚れていて俗悪だった。

僕は周囲に馴染めなかった。その理由を自分の家庭環境に求めた。確かに僕の家庭環境は異常であり、なにやらわからぬ妙な宗教団体に入り浸っていたり、両親はほとんど家におらず孤独にすごしていたりした。母は病気入院していて、親父は仕事忙殺されていた。親父と祖父は宗教の問題で揉めていた。僕は対象年齢が高いテレビゲームばかりしていた。ゲームがなによりの友人だった。

偉人本が好きだった。アインシュタインノーベルが好きだった。

彼らは世間で言う気狂いであり、「普通」とはかけ離れたが故に天才だった。

学校で周囲から聞かされる、普通の家庭像にそれなりに憧れた。それと同時に、自分の狂気に陶酔した。「普通人生」の欠損が僕を捩じ曲げ、それが狂気を生み、その狂気故に自分才能を裏付けているのだと思った。おまえたちと僕は根本的に違う。だから僕の有能さはこれからも揺るがない事実だ、と。

この愚かな少年は、幼少時は母親にひたすら甘やかされて育ち、一人っ子であり、世間との距離の取り方はわからなかった。狂人だから理解出来ないでいて当然だとも思っていた。

これが僕の早すぎた中二病だ。むずかゆくて吐き気すらする。

時間残酷で、歳を経るごとに世界は広がり、優秀なつもりの自分が崩されていく。

全てがそれなりに狂っていて、その全てが許容範囲の中にあり、誰かと同じように狂っていた。

そして、どこまでも平凡だった。

狂気が才能を担保するのではない。狂気に耐え続けた人が、結果としてある種の才能を有することはある。が、僕はどこまでも凡俗だった。憧れたのは、才能ではなく形だけの狂気だった。

それに気づいたとき僕の中に残っていたのは、虚栄心の残滓をすすって人生を食いつぶさんとする、怠惰魔物だったのだ。

  • 狂っていることが必要とされる場面も世の中にはあるので、 一概に悪とは言いきれない。 それに狂気というのはその時点で終わりではなく、 今後の人生においても影響を与え続ける。 ...

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