はてなキーワード: 配給制とは
実は、単なる「年齢制限」だったのだ。
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その女の子は体が弱いらしく、毎日、病院で注射を打つような状態だ。
同年代と比べて、発育が遅いらしい。
だから、その女の子の両親は、小学校就学を1年遅らせようか迷っているそうだ。
だが、ここに問題があった。
それは、1年遅らせると、その女の子は、中学2年生までの教育しか受けれないそうだ。
しかし、コメンテータによると、義務教育は、「15歳の3月まで」、ということだと。
そのように決められているそうだ。
年齢で切られるのだ。
だから、もし就学を1年遅らせたら、その女の子が「15歳の3月」を迎えるのは、
中学2年生が終わったとき、というわけだ。
それでわかったのだ。
つまり、義務教育というのは、
「どのような内容の教育を受けるか」、によって定義されているのではなく、
「15歳の3月」までに受けた教育を「義務教育」と呼ぶのである、ということだ。
言い換えれば、学習内容の達成度を見るわけではない、ということだ。
年齢を見ているだけなのだ。
留年もない。
学習させる内容も、ふらふらと定まらない。
なぜなら、そのようなことを気にする理由がないからだ。
「15歳の3月まで」という、単なる制度上の都合の、操作的な定義に過ぎなかったのだ。
まるで、ベルトコンベアに乗せて、「15歳の3月まで」という一定期間、「教育」という塗料を吹き付けていき、卒業したら、あとは知らん、というのが、日本の義務教育なのだ。
標準原価計算的に考えれば、かなり「歩留り」は良かったのであろう、いままでのところは。
だがこれは、大量生産の発想だ。教育資源が乏しかったころの発想だ。
経済学者の伊藤元重が、「日本の教育は配給制度です。いまでも」、と言っていたのは、正しかったのだ。
いくつかいただいたコメントで、義務教育の「義務」に関してのものがありました。
わたしとしては、この文章の意図は、「義務」うんぬんの話ではなく、
つまり、教育の内容に関してです。
もし、
その教育の内容は、無意味なものになりがちなバイアスがあるのではないか、
ということを言いたかったのでした。(学校に通っているだけでいいんだから)
その点で言えば、問題は、この女の子に限ったことではなく、われわれすべてと関係するでしょう。
これは誤解を招きがちな部分だと思います。なぜなら、
たとえば、不登校の人に対して、
「義務なんだから学校へ行けや」、と恫喝する人がいるであろうからです。
また、それに対する反動として、
「これは、親が子供を学校に通わせる義務だ」、という意見が出てくるのだと思います。
わたしの理解では、
「義務」は、「権利」と対になっているはずのものです。
すなわち、
まず子供に「教育を要求する権利」があり、保護者は、「それに応える義務がある」、
ということになるのだと思います。
「それに応える」というのは、具体的には、学校に通えるようにしてやる(ランドセルや定期を買ってやるとか、昼間に児童労働させないとか)、ということだと思います。
なので、義務教育の「義務」は、「教育義務」ではなく「就学義務」、ということだと理解しています。
サポートする義務です。
なお、上記のとおりだとすれば、不登校の場合は、本人が望んでいないので、保護者にも義務は発生しないのでしょう。
なぜなら、ウィキペディアで調べただけだからです。
わたしの考えでは、保護者が昼間に働くために、一時的に子供を預ける、というのが、主要な機能だと考えます。
場合によっては、高校も含みます。
もし日本が食料を輸入できなくなったら・・・
食料は配給制になり、それによって摂取できるカロリーは約1000kcal。
最低摂取カロリーを2000とすれば、
参考文献:週間ダイヤモンド2007/7/21号33ページ
月見そば750リットル
実は、食料を作るには大量の水が必用だ。
日本は食糧を国内で作っていないから、水がたくさんある。
だけど、輸入できなくなったら・・・
水不足がやってくる。
水がなければ食料を作るのも難しい。
輸入食料を日本人1人あたりの水輸入量で換算すると、
1日1460リットル。
これは実際に使用した総水量の約73%に相当する。
輸入をやめたら、1.36倍の水が必要になることを意味する。
ちなみに、牛肉1キロ作るのに、水は2万リットル(20トン)必要。
参考文献:週間ダイヤモンド2007/7/21号46ページ
参考ページ
http://www.bund.org/opinion/20050925-2.htm
http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/indexJ.html
はてブより
でもそこで昔(見合い。配給制の一種)に戻そうという発想にはならないんだー。
そりゃそう言う人もいるだろうけど自分はならないなぁ。だってその昔のものは一度否定されているんだし。次へ行くのが自然では?イメージ的には、昔のは「××」で今のが「×」って感じ。今否定したものに否定されたようなものなんて、全くお呼びじゃない、という感覚。無論、この事に限った話だが……つーか、見合い制度に戻るくらいなら結婚したくない。今もしたくないけど。君は見合いがいい?自由恋愛は敗者が出ちゃうから、配給制の方がいい、って発想?まあ基本的にそういうのは敗者の発想だわな。(別に君が敗者と言ってるわけじゃないし、厭味とかではない。マジで)
むしろこんな感じかも。
「は?理想の人?。。。。その発想はなかったわ!」
「縁のあった人が理想の人です。」← 縁は親や一族や年長者が決める。
でもそこで昔(見合い。配給制の一種)に戻そうという発想にはならないんだー。