はてなキーワード: 漱石とは
具体的にどんな古典教育強化でどこが「新たに」観光資源になるんだ?
日本は今でも十分歴史的伝統的なものを観光ビジネスに利用出来てるが。
文学をたしなむことが、人生を豊かにするという仮説を受け入れるとしても、まず現代語で書かれた文学をちゃんと読ませたほうがいいと思うけど。三島も太宰も漱石も芥川も鴎外も、せいぜい教科書に載ってるものくらいしか読んでない奴がいっぱいいるだろう。つーか、グッと読みやすく村上春樹でもいいよ。一冊も読んだことない奴がいっぱいいるぞ。今日本はそういう状況なんだ。
あと世界文学ね。「罪と罰」やら「戦争と平和」やら、名前だけしか知らない人ばかりだろ。
「楽しむ」という観点で言えば、古典や漢文の題材がそれらよりも優先するようには思わない。
俺も理系人間で、たいして出来がよくなかったから思うんだが、行列は大学入試という重しがある高校生の間にある程度慣れておくべきものだ。
大学で習った偏微分とか周回積分とかいっこも覚えてない俺でも行列演算は一通り出来るし、プログラミングとかで使えるのは、高校でみっちりやったからだよ。
行列と比べてどうなんだと聞いてるんだが。
そりゃ基礎技術力が高く工業力が強いほうが観光立国よりずっといいだろ。
上手い文章って才能なの?
そうでもあり、またそうではない。上司に褒められる程度の、あるいは注目エントリーに入る程度の「上手い文章」ならば、いくつかの『文章読本』を読み、練習を重ねれば、まあ5割の人は書けるようになるだろう。元増田が言っている「上手い文章」はそういう次元にない。何せ引き合いに出しているのが漱石。100年を越えて読み継がれる漱石だ。もしあなたがプログラマーなら「100年後に読まれ、かつ賞賛されるコードが書けるか?」という喩えが近いかもしれない。そのたとえにならえば、前述した「上手い文章」はせいぜい「動くコード」でしかない。
そういう歴史的レベルでの「上手い文章」は、どうあっても修練じゃ書けない、という元増田の主張にぼくは賛成。やっぱりかれらには天与のリズム感、引き出しがある。とりあえず最近もっともぼくが「人種が違う」と思った作家の文章を挙げておくので、読んで判断してほしい。
補足しておくと、引用する文は『文章読本』的観点から言えば零点だ。
さらに補足。これがデビュー作の冒頭。
サンディエゴにはおよそ三百万人の市民が住んでいるが、そいつらがどういうわけだかいろんな怪我や病気を背負い込んでホッジ総合病院にやってくるから、ERにいる俺は馬車馬三頭分くらいハードに働いてそいつらを決められたところに追いやる。チャッチャッチャッ一丁上がり。チャッチャッチャッもう一丁。やることもリズムも板前の仕事に似ている。まな板の上の食材を料理するときのチャッチャッチャッチャッ。板前と違うのは奴らが切り開いたり切り刻んだりするだけのところを、俺達は最終的に全部元通りに縫い合わせてしまうっていうところだ。何かを一旦メチャクチャに傷付けてそれをまた元通りに戻すなんて作業をするのはこの世で外科医くらいのものじゃないか?多分そうだ。俺はこの仕事が好きだ。人の怪我を治せることが嬉しいんじゃない。忙しいからだ。俺は忙しく働いて手を動かしながら歩き回ったり走り回ったりするのが好きなのだ。
フェザーライトノベル欲しい!と書いたワタクシにヘビー級をのっかりしてまで勧めてしまう増田どもが僕は大好きです。でもたまにはライトライトノベルぐらいなのも思い出して勧めてみてあげてください……!
ちなみに今は桜庭一樹をもう少し読んでみようかと思ってる。
あと漱石のリズムがいいってのは良く分かるなあ。とりあえず最大でも損害は読み終えた時に「やっぱ騙された!」と叫ぶぐらいの程度なので、是非とも突撃してみては。今回のラノベ突撃で身を持って理解したよ、「なんだよこの刷り込みラヴ女! ウザいんじゃ!」という沸々とした気持ちに耐えながらも読み進めれば、結論がどうでても「実は良かった」「やっぱ苦しいじゃねーか畜生と実体験で言える権利」の最低どちらかが得られるのは悪くない。
それに多分漱石は俺の突撃よりは楽だよ。本当に多分。
http://anond.hatelabo.jp/20070424234256
エトジュンとかカラヤン筆頭に日本の文芸批評を読んでると、「オメーラ、漱石ぐらいはフツーに読んだトキあるよな、ああん?」ってなオーラが濃厚に放出されているワケで。文学部在籍の人がスルーしちゃうのはまずい気がする。といっても僕にもなんか助言ができるわけじゃニャーのだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070424233223
漱石を読めないあなたに合う方法かどうかはわかりませんが、わたしはどんな小説でもいつも、冒頭の数ページを何度も読み返して、徹底的に頭にたたき込むようにしています。冒頭からの設定は、漱石に限らずどんな小説でも、必要なものはあとから何度も出てきますから読み飛ばしても読書を進める障害にはならないのですが、作家の想定した感情の揺れとは違ってきますから、登場順に頭にたたき込むのと読み飛ばすのとでは、感動が変わってくるのです。そして、読み終わるまでできるだけ他のことをしないように、2時間ほどは読書だけに没入できるように環境を整えておきます。映画を見ると思えば、それほど難しくありません。
著作物の一部を抜き出して、この部分には創作性が認められるから著作物、この部分は創作性がないので著作物ではない、と判断できる。
という主張ですよね。
本気で言ってるの?
ええそうですが。
何かおかしいですか?
例えば、夏目漱石の死後50年経っていないときに、
「我輩は猫である」
から1章まるまる(引用とは呼べないやり方で)利用したらそれは著作権の侵害になりますね。
しかし、
「うるさいなと、主人は読みとばす。」
という一文を自分の小説の一説として利用したとしても、それはおそらく何の問題もないでしょう。
また、タイトル「我輩は猫である」を流用しても問題はないはずです(著作人格権を著しく侵害しているとかなら別ですが)。
また、同じような一文であっても、漱石一流の独自の表現だ、と思わせる創作性が十分にあるならば著作権保護の対象になるかもしれません。
基準があまりに恣意的なのでおかしいとお思いかもしれませんが、
と書いてありますし、そこはケースバイケースの判断となるでしょう。