はてなキーワード: 牧眞司とは
杉江松恋というライターが、ハヤカワ文庫の百合SFフェアを批判したらしい。
早川書房、百合はじめます。ハヤカワ文庫の百合SFフェア|Hayakawa Books & Magazines(β)
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>これなんか、完全に百合を性の対象として消費している視線じゃないのか。 https://t.co/SisiVAcHUn— 杉江松恋@例大祭な37a 新刊『博麗霊夢、お大事に』 (@from41tohomania) May 31, 2019
「性の対象として消費している」という、かなり強めの表現で、リンク先の文章(画像)を非難している。
しかし、「完全に百合を性の対象として消費している視線」というのは、改めて考えると具体的にはどういう意味なのかちょっと分かりづらい。杉江自身はこの件について詳しく説明する気はもう無さそうなので、この「性の対象」ツイートで何を言いたかったのか、こちらで勝手に考えてみることにする。
今でこそ「百合」というのは、女同士の関係性を描くフィクションのジャンルということになっているが、そもそもの語源はそうではない。男性同性愛雑誌「薔薇族」の編集長が、男性同性愛者を意味する薔薇族の対義語として、女性同性愛者を「百合族」と呼んだのが始まりだ(とWikipediaに書いてあった)
もちろん現代の「百合」には女性の同性愛も含むが、それはあくまで物語のジャンルとしての話だ。
杉江は「百合」をジャンル名ではなく古い方の用法、女性同性愛者の意味に捉えて、ハヤカワ(の編集者)が現実の人間を弄んでいるように感じたのだろうか。
現実と一切繋がりのないフィクションなどは存在しないし、社会の中で弱い立場の人々を描く時にはより大きな配慮が必要なこともあるだろう。しかしそれはそれとして、ジャンル名としての百合の話をしているところに、(現実の)百合族の話だと思って入って来られてもちょっと困るというのはある。
現在では誤解されていることも多いが、物語ジャンルとしての百合は元々は男性ではなく女性が書き/描き、女性が読むことで発展してきたもの、らしい。
女性同性愛者や、非同性愛者であっても女性たちが読む分には問題がない。しかし、そこに完全に非当事者のヘテロ男が入ってきて百合を楽しむという行為は、それだけで性的な搾取である、というのが杉江の考えなのだろうか。だとしたら、あまりに潔癖すぎる姿勢である。
そういえば、やはり批評家・ライターでありハヤカワでも仕事をしている牧眞司という人物も、以前こんな発言をしていた。
SF評論家・牧眞司「異性愛者で恋愛経験もなさそうな人が百合とか言って喜んでる」(7/28追記) - Togetter
百合には、批評家という人種の心を滾らせる何かの因子でも存在するのだろうか。
3.ただの誤読?
リンク先ツイートで引用されている文章には、こういう一節がある。
分かる〜。
しかし、本来の内容はどうでもいい。問題は、「エモい」という表現だ。
杉江は、こう見間違えたのではないか。これならたしかに性的消費と言われてもしかたない。想像力が暴走気味な気はするが。
恐らくはどれも正解ではないだろうが、今回の件を考える上で、少しでも皆の助けになれば幸いだ。