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前のん: http://anond.hatelabo.jp/20100620143255
前回エントリのブコメ/トラバに逐一答えることはできないけど、眺めていて誤解があったかなと思う点について補足しておく。
まず一つ言っておくと、俺は自分の英語学習の成果としての英語力に「満足している」。俺の英語力は俺に対して果たすべき役目を十分に果たしてくれている。そして同時に、自分には場合に応じてネイティブの力を借りなければならない状況があることを知っている。しかしその自覚は、決して自分のコンプレックスを掻き立てるようなものではない。
なんつーかな、例えて言うなら、超サイヤ人になれなくてもクリリンにはなれる、ってことです。フリーザ一味のザコならガチでボコれるし、フリーザ相手にだって気円斬駆使して、クラッチプレイヤーとしての役割を果たすことはできるわけですよ。しかしやっぱり最終的にはサイヤ人やナメック星人の力を借りて立ち回らなきゃいけないわけ。
「クリリンにだって重要な役目がある」ことと、「でも結局クリリンはクリリン」との間のバランスを取ることはとても大切なわけですよ。「どうせフリーザには敵わないんだから俺何もしねえよ」でもなく、「俺はもうフリーザとも互角だぜ」でもなく。修行の成果を自分の糧とし、修行していなかったら見ることのできなかった世界を見ることの意義は、「ラスボスを独力で倒せない」ことによって失われるものでは無いんです、全然。
しかしですね、今日本人に向けて英語をやれと言う人達。主として経営者であり役人であり、もしくは煽り口調でいうなら「中途半端に英語ができる人間」ですね。英語をやれと言うこと自体はものすごく合理的だし理解できる。そこを問題視しているのではない。問題は、往々にして彼らは、「(今の段階の)クリリンにできること」の限界がわかってないと思われる点にある。そこから出てくるのは無いものねだりであり、無いものねだりされた側に植え付けられる英語コンプレックスである。その意味で、俺が指摘したかった問題は「レベルの高い」ことではなく、むしろ日本における初級以降の英語学習者の扱いなんである。
一つ例を挙げましょう。金谷憲の「英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます」より(今手元に本が無いので記憶に基づいて。多少不正確かも)。文科省の高校英語の学習指導要領に「実践的コミュニケーション能力の育成」という項目が入った。で、教師が「実践的コミュニケーション能力って何、具体的には何を教えればいいわけ?」と問うた。当然ですな。そしたら文科省側は「例えば英語で電話をかけることができるような能力です」と答えた、というエピソード。
しかし(ここからは金谷さんではなく、俺の意見)、英語圏で生活をしたことがある人間なら皆実感として知っていると思うんだけど、「英語で電話をかける」のはものすごく難しい。
これはちょっと考えれば当たり前の事なんです。まず、今時「電話での会話」が必要とされるのは、緊急性が高く、複雑なコミュニケーションが必要な状況に限られる。それ以外だったらメールや、自動音声ガイドに従ってプッシュホンのボタン押すので済むわけ。わざわざ電話で相手と話さなければならないのは、何かすぐに解決しなければいけない問題があって、その問題は単純なYes/No疑問文の応答では解決しないようなものである場合、ということになる。
そして電話である以上、視覚情報は全て遮断される。ジェスチャーや指さしを使うことも、相手のジェスチャーや指さしや表情から情報を得ることもできない。単純な音の聞き取りにすら視覚情報は大きな役割を果たしている(「マガーク効果」でググれ)。さらには頼みの綱の音声すら、電話回線を通して劣化していて、生で聴くよりも情報量が減っているのだ。この失われた情報の埋め合わせをするのは、確固たる英語能力に基づくトップダウン型解釈しかない。
というわけで俺は、日本人の高校生に電話での会話能力を習得させるのは実質不可能だと思う。そもそも順番がおかしい、「面と向かってなら十分に会話ができる」レベルに達して初めてそれよりも困難な電話に挑むべきだ。しかしお上にやれと言われた教師は、とりあえずやらざるを得ないわけですよ。なので電話での定型文を適当に教えてお茶を濁すことになる。Hello, this is Bob speaking.
で、高校生は卒業後、アメリカに旅行に行く。そしたら目的地の空港でスーツケースが出てこない(アメリカの国内線ではよくある)。空港のカウンターに行ったら、「後でここに電話しろ」と電話番号を渡される。ホテルの部屋から電話する。全然向うの言うことがわからない、こっちの言いたいことが伝わらない。惨めな思い。「学校英語なんて役に立たない!」となる。俺は六年英語をやらされたのに電話一本かけられない、ああ何て日本の英語教育はクソなんだ、もう英語はイヤだ。
しかし、仮にこれが中国だったらどうか。中国の空港でスーツケースが出てこない、ここに電話しろと言われた、電話したら中国語で何言ってるか分からない。大抵の日本人は、ここで頭を抱えて自分の中国語能力の無さに身悶えたりしない。まあ当然わからんよねーそりゃ、あーまいったなーと言いつつフロントに向かい、フロントマンに筆談や身振り手振りや片言の英語/中国語を組み合わせて意志を伝え、代わりに電話してもらうだろう。首尾良くスーツケースが届いたら、上手いこと言語の壁を迂回した自分のコミュ力にニンマリするはずだ。
この非対称性を日本人は深刻な問題と捉えるべきだ。例えば、「学校英語が役に立たないのではなくて、学校英語ではできるようにならないことがあるだけ」という、ごく単純な真実を覆い隠しているのものは何なのか。それは元を辿れば、「クリリンは超サイヤ人にはなれない」という認識の欠如で、さらにその大本にあるのは「超サイヤ人にならなければ生き残れない」という思いこみなんじゃないか、と思うんだよね。違う違う。学習のどんな段階においても、英語に関して「できないこと」は無くならない。どうしてもそれをやる必要があるなら、ネイティブにやってもらえばいい。「ネイティブにやってもらう」のは、恥ずかしいことでも、難しいことでもなんでもないのだ。