2014-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20140218122451

一人で悲しむべき問題ではないならすなわち皆で悲しむべき問題だという事でもない。そもそも共有しなければならないわけでもない。

表現を変えるならば、悲しまなくていい問題だ。

しろ問題ですらない。

なぜならば、原罪のようなものはそもそも一箇の個人が解決すべき類のものではないし、人生生活現実の中にありながらそういった抽象概念に苦しめられる人間は、逆に精神的余裕があるとさえ表現できるからだ。

抽象概念に苦しめられるということは、有り余る余裕を消費して哲学的思索に耽った結果の苦悩であり、もし仮に人生生活現実差し迫った問題が存在した場合は、そんな事などそもそも考えてもいられないのだから

記事への反応 -
  • “現実の問題に対して結局は自力で立ち向かわなければならない” その事実 事実?本当にそうでしょうか。こんなことを言うのが聖職者とはおかしいとおもいませんか?あなた。 生...

    • 確かに、さまざまな生殺与奪は自分以外の要因によって決められ、世の中は自らの意思とは無関係に動いてゆく。 だがしかし戦う相手は他者ではなく自分だ。 「運命とか俺の知らないと...

      • 3つ。 生じたいが一時的なものじゃねーか。 よって癒えない傷があるよね原罪とか人道に生まれちまったこととか代表に。 立ってろ立ってろ体罰小学校教師か

        • 3つ。 ・一時的なもので十分だ。傷を癒すに事足りればいい。 ・その癒えない傷は“杞憂”だ。仮に空が落ちてくる事を心配するとしても、それは一人の悩み事ではなくて世界全体の...

          • 一人で悲しむべき問題ではない。 おいおいおいおい。語るに落ちたな。宗教できちまったじゃねーか。 悲しみを共有させる、喪を司るのは何だ。

            • 一人で悲しむべき問題ではないならすなわち皆で悲しむべき問題だという事でもない。そもそも共有しなければならないわけでもない。 表現を変えるならば、悲しまなくていい問題だ。 ...

              • なんかもーさー。ダウトが多すぎて個別の反証になっちゃって恐縮なんだけど。 そもそも共有しなければならないわけでもない。 表現を変えるならば、悲しまなくていい問題だ。 そ...

                • では、ここで冒頭の主張に立ち返る。 “戦う相手は他でもない自分であって、「運命や人の力の及ばないものに対して己は無力である」と折れそうになる自らの心と戦わねばならない。...

                  • 「己の心と正面から向き合い戦う」 はて。そのようなことが一般的に可能なのでしょうか。 かつて(せめて治療のためだけにでも)それを試みたフロイトたちは今の惨状なわけですが。...

                    • 繰り返しの説明になるが、 “己の心と正面から向き合う”というのは何も、自身の精神性や魂の存在に対して定義しようという試みの事ではない。 「現実に際して直面した問題に対し、...

                • と思いながらしばらく見守ってきたのですが、 やはり炎上具合がいまひとつだな。 というわけで燃料投下。 下が、過去に増田に投稿した記事なわけですが、 http://anond.hatelabo.jp/2014021717...

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