まあ、なんだ。がんばれよ。
だからこそ他者からの評価を求めるのではなく、自ら正義の名乗ればいい。
一時的にはそうだろう。
でも、恒久的でないと意味がないけどな。
一緒じゃないだろ。
国家主義者というのは国家を至上の単位とする個人を指すものであって、国家自身が国家を最優先させるべき単位として行動するのは当然。
いまのところこんなもんか。
一人の学生として、これまでいろんなところで見聞きしてきたアカデミックな考え方について、
2つ不思議に思ったことがあるので挙げておく。
「その研究について一番詳しいのは学生本人であり、私は助言しかできない。だから先生と呼ぶな」
一見するともっともらしいことを言っているようで、教育放棄にすぎない言動。
少なくとも学生は授業料を払い、先生はその授業料などからお給料を頂いて授業をする立場にあるはずなのだから
もちろん言いたいことは分かるんだけどね。でも声に出して言っちゃだめでしょう。ましてや美談にしたら駄目でしょう。
「君は自分の研究を防御しなければならない。ほかの先生は攻撃するから。」
研究とは真理を探求するもののはずなので、攻撃とか防御という視点はおかしいと思うが、割とこれも使われている気がする。
仮に指摘がまったくもって正しいのであれば、それは真摯に受け止めるべきだと思うし、
逆に的外れな指摘であれば、齟齬のある部分を穴埋めするように説明するだけであって、
そこに攻撃とか防御という概念は存在しない。
もちろん、現実には指摘に対して真摯に受け止めてると卒業できなくなったりするから、
何かしら防御したりかわしたりすかしたりする必要があるんだけれど、
これも言っちゃ駄目だよね。
ましてや学生に対して「もっとしっかり防御しろ!」とか言うのっておかしいよね。
「もっとしっかりお伝えしなさい」
とかなら分かるけれども。
そうじゃない。
現実には差別や偏見が残っているんだろうが、黒人にしてもネイティブにしても、同じアメリカ国民として法的に差別しないというのが公民権運動だろ。
で、それとは別にツッコミを入れただけ。
祭りでは一時の熱狂に狩られてファナティックな言動を行うことがあるが、
そもそも祭りとはそういう物。
あるシチュエーションに追い込まれた場合には、行動の選択の余地が少ないケースがある。
自分をそういうシチュエーションに追い込まないことが必要だけど、
追い込まれちゃったらもう仕方がないと思う。
過去のことは過ぎ去ったものとして精算したい。
違うね。
その場合は、「暴力」に不当性が織り込まれている。
定義ってのは大事だよ。
事実の確定と同じくらいには。
評価そのものはどうでもいいんだよ。
どうでもよくないんじゃないの。
人間は基本的に悪には耐えられない。
そこで最も利用されるのが宗教だし。
前提となっている。
だから、それは観念的な国民であって、実在の国民を殺すことではないだろ。
協調以外の選択肢が国益に適わないと論理的に証明できれば論理的には問題はないよ。
証明できれば、ね。
この場合の「べき」論は「国益に適うべき」というものであり、そこから「国益とは何か」という形で利害の調整を行うようになる。それが筋。
それは国家主義者の立場。
時々フラッシュバックする度に恥ずかしくてたまらなくなる思い出たち。
小学生のとき、好きな男の子にチョコを渡し、目が合った瞬間ウインクしてしまったこと。
事あるごとに確認してはニヤニヤしていたのがクラス中にバレてしまったこと。
相手の子にきっぱりCOされてしまったこと。
他にも色々あるけど、特に印象的なのはこれくらい。
元増田の理想とする社会では、良心が強くて軽い悪事に加わったくらいでも自責の念で自殺しちゃうよう聖人でないとまともに人間扱いされないんだよ。
なぜミニマルな方向に行くんだよw
愚痴を言うことしかできないと思い込んでいるが、そんなことはないさ。
お前自身が変われば世界も変わる。
今までやったことないことをやってみろよ。