2008-12-23

朝日新聞GLOBE(12/22) 金融危機中央銀行

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(G-2面の囲み記事)

ハプニング総裁に就任

白川は、数年前まで、日銀内部で副総裁候補ですらなかった。

入行の2年後輩の稲葉延雄(現・リコー特別顧問)が、副総裁、そして総裁候補の「本命」だった。稲葉は、若いころから金融政策を担当し、1998年施行された日銀法の改正作業でも、日銀内で中心的な役割を担った。

他にも、やはり日銀法改正にかかわり人脈の広い三谷隆博、国際派の平野英治ら、理事を経験した有力候補がいた。

最近になって白川の存在感が増してきたのは、日銀幹部に、海外中央銀行幹部と対等に話ができる経済学の専門知識が求められるようになったためだ。ただ、福田政権が今年春、白川を副総裁に指名したのは、意中の総裁候補が武藤敏郎(当時、日銀総裁)だったことも大きい。

財務事務次官経験した武藤は各界の太いパイプがあり、調整能力にたけている。理論派の白川は、武藤と組み合わせるとちょうどよいと目された。この時点では、あくまで白川は「知恵袋」として、総裁を補佐することが期待されていた。

ところが、運命は、本人も予想しない方向に転がっていく。

参議院で多数を握る民主党は、「財政金融の分離」を唱えて財務省OBの起用への反対を崩さず、武藤総裁案を葬り、やはり財務(大蔵)事務次官経験した田波耕治案も一蹴した。

主要7ヵ国財務相中央銀行総裁会議(G7)が近づくなか、総裁空席が長引くダメージは大きい。となると、民主党が同意できる、残る総裁カードは、白川しかなかった。

当時、白川は58歳。50代の若さ総裁の退場は52年ぶり。金融政策などを決める政策委員会の5人の審議委員のうち、4人は白川よりも年上だ。

いきなり約5000人の職員を擁する組織のトップに就いた白川の指導力、調整力には不安もある。首相麻生太郎は、白川自身の意向も聞き、山口広秀を副総裁に任命した。

山口日銀出身だが、政府との実務交渉経験が長い。今後、内部管理的な業務や政府との意思疎通などで、山口が担う部分も増えていくとみられる。■

華やかな場所は苦手

総裁である福井俊彦は、社交的で人づきあいがよく、経済界にも豊富な人脈があることで知られた。財界人とも頻繁にゴルフをした。

白川は少人数の食事会での議論は好きだが、パーティなどの華やかな場所は苦手。若いころはテニスを楽しんだが最近はやらず、ゴルフも年に数回程度。週末の楽しみといえば、「双眼鏡を持って、妻とバードウォッチング」といったところだ。

もっとも、この秋からは金融危機の対応に追いまくられ、バードウォッチングどころではない。

白川は1949年福岡県小倉で生まれた。姉と弟の3人兄弟。父は、地元東洋陶器(現・TOTO)に勤めるサラリーマンで、後に社長となる。地元の公立小中学校から県立小倉高校に進んだ。

高校時代の同級生で、以来親しくつきあう読売新聞大阪本社執行役員松尾徹は「誠実で、はったりがない。困った顔をすることはあるが、怒った姿をみたことがない。線が細そうにみえるが、案外、楽観的で腹がすわっている」と白川を評する。

東大文科一類に入学したが、経済学部に進む。法律より経済学に面白みを感じたのが理由だ。

21歳の夏休み帰省先の小倉から上京するブルートレイン(寝台列車)の中で、津田塾大の学生だった美恵子と知り合い、日銀に入ってまもなく結婚した。日銀就職したのは「ビジネスは大切だが、自分民間企業に向かないと思ったから」。

入行4年目で米シカゴ大学留学して経済学修士号を取得。博士号を取るためにもう1年の延長を願い出たが上司に断わられ、日銀を辞めてシカゴに残るかどうか悩んだ。

その当時、白川の1年先輩で、相談を受けた大塚二郎(現・政策研究大学院大学教授)は、「日銀を辞めて学者になったら」とアドバイスした。「組織の中で出世するタイプには見えなかったしね」と大塚は笑う。

服装にはさほど構わないが、ネクタイにはこだわりがある。海外出張の時に免税店自分で買う。今年10月の「クールビズ」明けの記者会見では、小倉高校の同級生たちから贈られた小倉織のネクタイを締めた。

週刊誌に「いつもの寝グセを何とかしたほうがいい」と書かれると、友人が「寝ぐせ直し」用の整髪料をプレゼントしてくれた。以来、毎朝それを愛用している。■

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