代わりに、職場の上司と不倫するとか売れっ子アーティスト/デザイナーと一夜のアバンチュールというような、力ある者の目を一瞬でも自分に向けさせるというような無形の価値を欲するのは女子特有じゃないか?
それ同じ人が言ってるんじゃなきゃ、しょうがないと思うけど。
別にテスト勉強じゃあるまいし。
そういう処女信仰もあるだろうけど(破瓜の痛みを甘美なものとして描くような)、今話題になっているようなケースは非処女に対する嫌悪感や劣等感の方が強いのじゃなかろうか、と思った。
思い出や美化をしてるタイプは、処女との行為を求め美化する一方で、非処女とすることも平気そうだが、そうではなさそう。「処女を求めてるんじゃない。非処女を拒絶してるんだ。」
サンキュー。要は、登録しやすいドメインだから増えてるってことか。
でも、元増田の
って、.inで終わってなくて.comじゃん。それなのにどうして「お星様.in」なんて言うの?
まあそうだねw
あと、男性が全て「視覚」と「触覚」が最優先だとは思わない。ちゃんと「恋愛」ができる男性も沢山いる。
ただ、劣等感が強く、童貞をこじらせていて、処女崇拝に向かう男性の場合は、いわば自分の自信のなさを高価なブランド物を身に着けることで払拭しようとするが如く、自分の劣等感を払拭してくれるモノとして女を見る傾向にあると思う。
ただし、この場合においても「視覚」と「触覚」は最優先ではない。もしも「視覚」と「触覚」が最優先ならば、風俗に行けば済む話だからだ。しかし彼らはそれでは済まない。彼らにとっての最優先は劣等感の払拭であり、「恋愛(セックス)できる自分」「女に受け入れられる自分」という地位を手に入れることなのだと思う。風俗ではこの地位は手に入らない。
年度内に支給するの何のと悠長な事を言っている給付金なんぞ待ってられない。
「年内開催年内支給!餅代を奪い合え!」の副題の元に開催される公開デザイン祭こそ我が生命線。
餅代という表現が古めかしいのなら、
「クリスマス前日支給!ホテル代を奪い合え!」でも何でもいい。
amazonギフト券でホテル代払えないだろって?
それは「地域振興券で貯蓄は出来ません」とかいう話か。
閑話休題。
ともあれ、秋というやつは感覚的に短いもので、
天気予報に目をやれば西高東低の気圧配置。冬はすぐそこだ。
まあ正直言って秋→春→秋ではどこの天皇賞だって話でもあり、
季節もののデザインをまんべんなく集める為にも一つずらすのも悪くない。
本格的な冬将軍の到来は年が明けてからだろうが、
それではどこのフェブラリーSだって話。いまいち盛り上がらない。
「公開デザイン祭」を冠するならば、マツリダゴッホよろしく有馬の季節が相応しい。
はてなダイアリー日記でスターターが旗を振るのを今か今かと待っている。
「○○に対応しました」とかいうのはもうたくさんだ。
旗を振れ、勢いよく旗を振れ。
虎視眈々と賞金を狙う猛者共との戦いが待っている。
大荒れもいいところだ。恥ずかしい。
寛解できなくてもかまわないと思っている。一生憎んでいこうと思ってる。自分はそれでいいんだ。許せないならそれはそれでいい。許すのが怖いのかもしれない。
昨日も一日からだが冷たくていつまでたっても寝付けなかった。体中が凝って緊張しているのがわかった。何とか明け方頃に寝入ったけれどもすぐ起きてしまい、今日は一日頭が冴えなかった。元々胃腸が弱いが、飲み物だけで吐けるほど弱っている。別に多分風邪ではない。気から来るってやつだ。
街中で小さな子供を見かけるたびに考える。自分はどういう子育てをするんだろう。いずれちゃんと考えなければならないことはわかっているけれども、いつも怖くて途中で苦しくなってやめてしまう。子供は多分好きだ。いやでもわからない。毎日夜泣きされたら、わがままを言われたら、どうするだろう。どう思うだろう。自分はなにをするだろう。時々止まらない感情があることはわかっているのに、それをどうにかしないうちに親になってしまったらどうしよう。どうなるのだろう。怖すぎる。だから許してはいけないのだ。あれにはならないという意志を強固にもって些細な自分の制御できない部分に触れるたびにあれを思い出してそして自分自身を止めねばならない。あれになってはいけない。だから私は許してはいけないのだ。絶対に許してはならないのだ。
あるひとにじっくりと話し合えば寛解できる、できないわけがないといわれたことがある。そうかもしれないと思った。一時は少しましな関係になったかのようにも思えた。だがそういった彼自身が私を裏切り傷つけ、ずたずたにしたとき自分で築いた幾重ものバリケードの向こうにかわらないあれがいた。きけばきくほど吐き気がした。理解しようと思えば思うほど理解できなかった。もしかしたら彼の影がさしているだけかもしれないと判断を保留して数年たったがあれはあれのままだった。理解できなくてもいい、今はまだ許さなくてもいい、そう自分で思ったときもあれはあれのままだった。変わることはないのだと思った。
寛解できる人もいるだろう、よく話し合って理解できる人もいるだろう。でもあれは無理だった。理解は、した。多分したと思う。でも許すことはできないと思った。過去を水に流すことはできないと思った。大切なひとだということはできなかった。
何気ない言葉に傷ついている。言ってる人たちは悪くないし、普通はそういうものだろうと黙って笑っていることにしている。勝手に傷つくのが悪い。黙っていればそれでいい。誰にでも言わなくてもいい。弱いところを突かれるだけだから自分のために黙っておいた方がいい。
あれは自分の心の安寧を保つためだけに周囲に人間がいると思っていた。あれにとってはすべてが自分を満足させるために存在しているものでそれ以外は排除すべきものだった。愛情はあれを都合よく根拠なく肯定することによってしかありえなかった。あれはいつも言っていた。勝手に生まれてきたくせに育ててもらってる感謝をしろと言った。おまえを養わなきゃいけない理由なんてどこにあるんだろうと心底不思議そうに言った。その言葉通りいとも簡単に存在をけそうとし、大量の血が流れたが病院にかかったことはない。言葉で何度殺されたかわからない。何度も何度も死んでついに何も感じないようになり、すべての人にとって都合のいい人間になった。誰にも逆らわなかった。誰からも存在を認められなかった。
私が苦しかったかつらかったかどうか人と比べるのは無意味だ。恵まれているかどうか不幸か否か人と比べることは無意味だ。私がそうだと思う事実だけが過去には存在していてそれでかまわないのだ。私は言ってもよかったのだ。反発をしてよかったのだ。相手のせいだと一方的に言ってもよかたのだ。今となってはできないが、そうすべき時があったのだ。そうすべき時を経て、自分は悪くないという感情とだがそうとは限らない自分にも非があるという冷静な思考を養わねばならなかったのだ。でも私にはそれができない。まずすべて自分が悪いのだと思い、それから苦労して自分が悪くないという屁理屈をこね上げなければならない。でもそれでもいいのだ。それでも自分がどういう人間かわかっているならそれでいいのだ。自分がまずすべて悪いと思い込んでしまうと言うことを理解してくれる相手がいるなら、それでかまわないのだ。理解した上で立ち止まってくれる相手がいるならそれでいいのだ。私が悪いと思い込んでいるのをいいことにすべて私にかぶせてしまう人でないなら、ちゃんと対話することができる。立ち止まって思い込みをただしお互いに冷静なまま話をしていくことが可能であるのならば、それでかまわないのだ。そういう信頼を置ける人がいるなら、それで十分なのだ。
こうして一つ一つ文字にして自分に言い聞かせることでしかまだやっていけない。無意識の思考の中ではまだ自分自身の思考を整理できない。それでも一歩を踏み出したのならいつか幸せになれると信じている。恐れないで自分とは何かを表現して傷つくことを恐れずに進んでいけば、いつか普通が何かがわかると信じている。もしかするとそれは青い鳥かもしれないが、実際に探し回る過程こそが必要なのだからそれでいいのだろう。
私はあれを許さないしあれにまつわるすべては捨てようと思う。罵られても非難されても、それで弱気になっても、それでも行くしかないのだろうと思う。次の世代に渡さないために。連鎖を一つずつ断ち切っていくために捨てなければならないのだ。すり込まれた恐怖も何もかも。
まあ両方大事だよね。
寄生獣の最後でミギーがさ、「そろそろ自分だけで考えてみる」って言ってさっと閉じこもっちゃうじゃん?
ああいう風になる時期って大事だよね。ただ学習期も必要だとは思う。