地元での結婚式の案内を送りたいから住所を送ってほしいって。返信していない。だって交通費いくらかかると思う?正直お金もったいないっすよ。卒業以来一度も会ってないということもあって、忙しいのにかまけて気づいたらメール無視していた。ダメか。どう返そうか。一週間たったし。気まずい。めんどくさい。まちがって削除したことにしたい。最近どうとか聞かれるのも面倒だし。最近?別に仕事してるよ。
そこで非モテを出すのはいかがかと。
十数人の彼氏彼女ありなし未婚既婚の男女が入り混じって、朝までオプティマイザの動作やらバッファプールの配分について延々と議論するような集まりだってあるしね。
某アニメの「番組のオープニングでスプレーでそこら中に落書きする演出があるがこういう演出はやめたほうがいい」という意見がBPOに寄せられていたという話を見て、最近同じアニメを某吉田Aミさんが大絶賛していたのを思い出した。
「へえ、いろんな見方があるもんだね」でスルーしておけばいいんだろうけど、それなりに志のようなものを持って創られた作品なのであれば、あのOPにも「目先が変わっていて面白い」とかという以上の意味が込められているんだろう。でもそれが何なのかは俺には(まだ)わからない。
( ;^ω^)<へいわぼけ: 葬式とか通夜で故人の死に顔の写メ取る人ってどういう教育受けてきたの?
36 名前:番組の途中ですが名無しです[sage] 投稿日:2007/02/21(水) 17:37:57 ID:H1UyzNR00
86 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2007/02/21(水) 17:50:37 ID:eiailINCO
相手が居るものとしての行為は写真に限らず嫌われて当たり前。
間違ってたら指摘よろしくお願いします。
追記:トラバから
4と5の間が論証されていないと思うが。
”必ずしも”というとそうなんだけど、↑の引用部にもあるように、日本の葬儀が「相手が居る社会と居ない社会を区切るために」するものだとするならば、十分「宗教性を脅かすような行為」と言えるんじゃないかなあと。
いままであった人の数を概算でも数えたこともない。
これは面白いね。
ちとプライベートに書きすぎたので省略するよ(´・ω・`)↑ そんなつもりもなかったんだが。
出会った人の数は生涯で1500人ぐらいー。
マクロに見たときの、個人に与えられる「自由」の意義とは、社会がその構成員に対して業務上必要なデバイスとして支給する「道具」とか「業務用品」とか「官給品(?)」なのだろう。
その業務用品=自由によって、個人がどんな業務を遂行するのかと言えば、社会それ自身の維持発展とかそんなあたりだ。余剰時間=余暇でさえ、労働力再生産という名のメンテナンス作業に費やされる。
従って、その業務とは異なった目的に「自由」を使用したなら、それは支給された業務用品の目的外使用として指弾される。
「自由」を何か外的な全体社会のための道具として捉えるなら、たぶんそんな感じになるんだろう。
曖昧な「場」とか「空気」みたいな、しばしば“日本的なもの”として表現されてきたものが、部分的に無効化していったんだろうなとも思う(全面的にではないが)。生まれつつある新しい「空気」には、曖昧な調整機能があまりない。
主観的意識が巨大な世界と直接対峙して切り結ぶ「われ思う、故にわれあり」な西欧の近代個人主義的感覚が、形を変えながら日本でも自生しつつあることの表れなのかな。
海原雄山とベジータと烈海王が有名だけど、始祖はブラックジャックなんじゃないか。
話によってツン度は変わってくるけど、その最大落差は凄まじいものがある。
昼も夜もない白い空間で私は過ごす。一日を?一年を?一生を?時間はとうにわからない。もう何十年も経っている気もするし、何年かしか経っていない気もする。夜に寝て、朝に起きるなんて習慣も、もうなく、気づいたら起き、気づいたら寝ている。そして、時々こうして考える時があるだけだ。
食事は腕から点滴で、排泄は尿道にささったカテーテルで済ませているらしい。なぜ、らしい、なのかと言うと私にはそれが刺さっているかどうかわからないからだ。体の感覚はすでにない。だから、正確に言えば体が本当にあるのかさえ、わからない。あるのはただただ白い空間と、こうして考えてる私だけ。だから私が考えていない時、ここには何もないのかもしれない。もし、あるとするならば、ただただ白い空間に、出来損ないの人形があるだけだろう。時より考える、出来損ないの人形が。
そういえば、いつから人形のようになったのだろうか。私は回顧する。
ある日突然、私は全身麻痺になった。理由はもう思い出せない。そしてここに連れてこられた。この白い空間に。初めはまだ昼も夜もあったし、私は人間だった。ただ全身麻痺した人間だった。しかし、しばらくすると、それもぐらついてきた。それ以前は食事や排泄など、煩わしいだけだと思っていた。面倒なだけだと。しかし、いざ、食事や排泄をする必要がなくなってみるとどうだ。今まで持っていた多くのものがぐらつきだしたのだ。点滴は一定速度で落ちてくる。故に満腹もなければ空腹もない。ずっと同じ状態だ。しかも自らが咀嚼して嚥下するのではない。ただただ機械的に、ぽたり、ぽたりと落ちてくる点滴によってだ。自分ではどうにもならないそれによって、私は常に保たれる。満腹も、空腹もない状態を。そして私の命を。
排泄も初めは抵抗があった。しかし、すぐにそれは意味のないことだと知らされる。なぜなら何もないのだ。自ら排泄していた頃ならば、自らがコントロールできたそれが。全く、何も。だから、私はいつ排泄されたのかもわからない。感覚がないのだ。気がついたら排泄されていて、カテーテルを通して、尿バッグへと溜まっている。点滴と同じように。ぼたり、ぼたりと。
この頃から私は揺らぎ始めた。自分が。身体が。私は点滴によって生かされる。私の意思とは何ら関係のない点滴によって。そして点滴は私の体を通り、排泄される。これも私の意思とは何ら関係がなく、機械的に。自動的に。これを生きていると言えるのだろうか。私の身体だと言えるのだろうか。私はそのように考えるようになった。
そして何もない日々が止めであった。何ら変わることもなく、白い空間で点滴とカテーテルとの管となって、私の意思とは関係なく、ただただ生かされる日々。何日も、何年も、何十年も。私は生かされ続け、殺され続けた。
この考えも何度目、何十度目、何百度目、何千度目だろう。数え切れないし、数えられない。時間の感覚も、変化もないんだから。他のことはもう思い出せない。このことだけしか、人形の作り方だけしか私には思い出せない。
そして―それももう―終わりが近い――だろう。もう擦り切れ――だ。後――最後の一行程で―――完成――――だ―――――から――――――
納期だけで部下をコントロールしようとしているのがおかしくなってる原因なんじゃないの?
プロジェクトを完遂させるためにケツを叩くかなだめるかしかしてなさそう。
それはいわゆるアルファブックマーカーさんが、いっぱいブクマしてるけっか、あなたのエントリのブクマが全部その人になっちゃっただけとかじゃないよね?
…と、突き落としてみる。
後、一旦400userとかブクマされた人とかは相対的にファン層が居るからいつもブクマが付くのは仕方ないよ。
他は極端に面白いか、極端にむかつくか、感情を狙い撃ちできてない普通に面白い程度のエントリは読んで終了だからブクマはされないよ。
はてブが偏ってると言われてるのはそこらへんが顕著に出てるせいだしね。(無論他のブクマサービスも数が増えていけばそうなるのは目に見えてる→ブクマの限界)
…と、こっちはフォロー