2007-06-05

「『あまえる』ということについて」を読んでを読んで

「『あまえる』ということについて」を読んで

http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20070515/p1

上記ブログではこの本の中の小学校二年生の中村咲紀ちゃんという少女が書いた

「『あまえる』ということについて」という題名の「セロ弾きのゴーシュ」の読書感想文を、

上手に引用してわかりやすく内容を紹介しているのだけれど、

これが8歳の少女が書いたとは到底思えない見事な感想文なもので、

びっくりして早速本を注文してみたよ。

で、届いたので、昼休みに近所のカフェカレー食べながら読んだー。

泣いた、カレー食べながら泣いたー。

でもその涙は一言では言い表せない複雑な感情から出たものだった。

第一にここまで厳しく自己言及せざるを得なかった、

彼女の寂しさや苦しみが伝わってきて胸がヒリヒリした。

そもそも満たされた子ども自分語り言葉など持たない。

彼らは自分を客観視することがないから。

世界は自分で、自分が世界。主観しかないのが子どもの世界。

遠足に行きました、楽しかったです。」と書く一般的な子どもの表現力が拙いのは、

感受性が鈍いからではなく、表現する必要がないからではないか。

そこには子どもと世界の幸福関係がある。

子ども特有の万能感が薄れ、矛盾や理不尽、欺瞞をはらんだ世界を、

自分の外側のものとして意識し始めるのは一般的に思春期頃といわれている。

世界との断絶こそ、子ども時代の終わりをつげるもの。

その頃になると自分の葛藤を表現したいという欲求や、

自分のアイデンティティ確立するための自分語り言葉を、

誰もが身に着けていくのだけど、

そういう言葉を8歳の子が身に着けているというのはどういうことだろうと思った。

感受性が豊かなさきちゃんにとって、幼い彼女を取り巻く世界はあまりにも過酷だったのではないか。

もちろんそれが単に悪いこととは言わない。

そのことによってこれだけ自分を見つめる力と、

それを表現する力を身につけたのだから、素晴らしいともいえる

だけど、この完璧すぎる素晴らしい文章の影には、

彼女言葉にならないたくさんの苦しみがあったと私は思うんだ。

次にこの感想文に見え隠れする欺瞞を憎む純粋さと、

潔癖なまでの理想の高さが痛々しく思えた。

それは美しく貴いものだけれども、

こういう美しいものが美しいままで生きられるほど、

世界は美しくないというのが現実だと私は知っている。

彼女純粋さと高い理想は、確実に彼女のその後の人生を生き難くするだろう。

彼女感想文の中で「本当の」という言葉を乱用している。

こういうところに彼女の危うさを感じてしまう。

どんなに探しても「本当」が見つからないときもあるし、

自分や他人に嘘をついてでも、「めでたしめでたし」じゃなくても、

生きるしかないという人生の過酷さを、

彼女のように感受性の強い人が、知らないで済むはずはないと思ってしまう。

さきちゃんには、嘘をついてでもいいから、たくましく生きてほしいと祈る気持ちになった。

で、その後元ブログトラックバックを読んでたの。

概ね大絶賛で、時々シニカルな人は懐疑的なコメントをしてて、

大体は予想通りの反応だったんだけど、

一件私の気が付かなかった点に言及しているブログがあって、

ほほーっ!と思った。

子ども投影される母親の心

http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070517/1179410983

うーん、私が感じた不自然さはこういうことなのかもしれない。

さきちゃんは天才といって過言でないくらいの表現力を持った子だけど、

その根源には母親に愛されたいという強い気持ちや、

子ども母親が互いに相手を同一視してしまうような、

依存的な関係があるのかもしれないね。

第三に、そういったこの感想文にまつわる複雑な感情は抜きにしても、

これはやっぱり凄い文章で、感動して泣いちゃったわけ。

こういう純粋な気持ちを忘れないでいたいですね、と陳腐にしめます。

長くなっちゃった、ごめんね増田

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