はてなキーワード: 金子金五郎とは
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20090420/p1
を受けて、
http://d.hatena.ne.jp/shotayakushiji/20090508/1241797762
http://modernshogi.pbworks.com/
と言う形で下訳された「シリコンバレーから将棋を観る」の英語版。
これにエキサイト翻訳をかけ、だいたいのところをつかみつつ、超訳をかましてみました。
「シリコンバレーから将棋を観る」のリバースエンジニアリングと言えます。
リバースエンジニアリングに正当性を持たせるため、「シリコンバレーから将棋を観る」は購入はもちろん、ブログの引用などに目を通すことすらしていません。純粋に英語版だけを元にしています。
このため、特に邦題、固有名詞、会話の語調などが間違っている可能性がありますので、その点はご承知おき下さい。
また、今のところ実施したのは前文のみです。
下訳は1時間、超訳は全く別のDVDをながら見しながら3時間ほどで終わらせましたので、その程度の精度と取っていただければ。
ツールとして、アルクの英辞郎(http://www.alc.co.jp/)を始め、オンライン辞書、Amazonの書籍検索、Wikipediaなどを活用しました。IT革命で仕事のツールが便利になったってのは本当ですね。
忙しい人のために要約しておきますと、
と、こんな感じみたいですが、実際のところどうなんでしょう?
20世紀末に起きたIT革命と急速なグローバル化。社会はより複雑に大きく変わりました。得られる情報は増え、仕事に使う道具も増えました。その結果、昔(と言っても20年ほど前ですが)に比べ、今は、自分に合った仕事をやりたいとか、やりがいのある仕事をやりたいとか、そういった仕事できちんと生活したいと思うと、一人前になるために必要な期間も、そうなってから働く時間も、ずいぶん長くなってしまっています。良いか悪いかは別にして、「自分の趣味に関することを勉強しよう」とか「趣味を仕事にしよう」というのがなかなか難しい時代なのです。
将棋は、日本の社会、日本の文化として、日本人の心に深く根付いています。日本人なら、小学生、あるいは中学生の時は、将棋でよく遊んでたな、という人も多いでしょう。ただ、そんな時代は長くありません。将棋に夢中だった男の子も女の子も、10代後半以降、専門の勉強が増えるなどして忙しくなると、だんだん将棋を指さなくなります。私も他の皆さん同様、そうやって将棋を指さなくなったうちの一人でした。
10代末から始めてきた自分の専門をいかして働き、それで家族を養っていこうと、日本を去りシリコンバレーで生活してきた、というのが、私のこの25年のことでした。そうして私は自然に将棋を指さないでいました。
とはいえ、日々忙しいなか、たまの余暇には将棋に関する情報に触れていました。著名な将棋関連本でしたらほぼ全ての書籍を読んでいましたし、雑誌"将棋世界"を定期購読したりしていました。ですから、遠く離れた場所から、日本の将棋と棋士の魅力にとりつかれていたと言えます。
将棋を"指したり"、"腕が上がったり"、する暇は全くありませんでしたが、今でも将棋を"観戦したり"、棋譜を"読んで楽しんだり"、将棋から"人生のヒントを得たり"することは日常のことになっています。例えば、米長邦雄永世棋聖(日本将棋連盟会長)が記した名著「人間における勝負の研究 - さわやかに勝ちたい人へ」(82年、祥伝社)は私が大学にいる時に出版されたものですが、私にとっての必携の本でした。重要な決定に関わる時、この本が自分を助けてくれたことが何回もありました。また、金子金五郎九段については、おそらくこの本の中でも何度も語るでしょうが、単に彼の本がいい、だけにとどまりません。彼の本は、私の執筆の手本となっていますし、彼の生き方が、私が後半生に目指したい生き方でもあります。
「指さない将棋ファン」である私。
私はこうして将棋に係わってきましたが、将棋はほとんど指してきませんでした。そのため、将棋が好き、といったことや、趣味は将棋、といったことを公言してはいけないと思っていました。将棋を好きと言うためには将棋が上手くなければいけない、そんな空気があるように見えるのは私だけでしょうか。将棋界の一員になるには、敷居が高すぎると考えたのです。それで、私は一人静かに将棋を愛し続けました。
40代になり、暇になってきたので、私は愛する将棋について、自分のブログでつぶやき始めました。
すると、驚いたことに、かなりの反応があったのです。日本にも、将棋を指さなくなって長くなっても、心の中では将棋を愛し続けていた人がいたのだとわかりました。
小学校の同級生で、今は外科医をしている友達に30年ぶりに会った時にいちばん盛り上がった話題は、前に私がブログで書いた話がきっかけでした。
「梅田、お前、子供の時から将棋が好きだったのか。俺も下手の横好きでな。医学部に入ったら、将棋を指す暇なんてなくなっちゃたけど。でもなあ、今度中二になる俺の息子が、将棋クラブに入っていて、毎週あいつと毎週日曜のNHKの将棋番組を見るのが楽しいんだよな」
「なら、将棋の大ファンじゃないか」
「将棋を見るのが好きなら、俺と一緒で、十分趣味と言えるよ。プロ棋士はすごいよなあ」
「今から5,6年経ったら、オペも引退だろうし、そうしたら暇になるから、その時は将棋観戦ももうちょっと楽しいだろうな」
彼と将棋について話している時間はあっという間に思えましたが、それは子供時代にタイムスリップしたひとときでした。
また、S社の技術関連責任者10名と、新技術の商業化に関してぶっちゃけた会議を行った時のことです。会議の後で、そのうちの1人のソフトウェア技術者、私はこの人とは初対面でしたが、彼が私に話をしに近づいてきました。30代で、凄腕の技術者です。
「ええ」
「それはうれしい。仕事のあとでそういう話が聞けるのはいいですね。」
「自分、高校の時には初段を取ったくらいの腕前だったんですが、大学に入ってからはソフトウェアにかかりっきりで、将棋を指す暇がなくなってしまったんですよ。でも、時々雑誌とかテレビとかインターネットで将棋をみていましたし、それで鳥肌の立つこともありましたよ。あれは本当に面白いものです。学生時代も将棋に没頭する人たちがいて、彼らはアマ有段者だったりするんです。そういう人が仕事場にいるんですが、ああいう人たちを見ていると、どうも自分が将棋ファンだと公言するだけの資格がないように感じてしまって。」
「そんなことはないでしょう。あなたは"指さない将棋ファン"だし、"趣味は将棋観戦です"と言えばいいんです。私は自分の趣味を言う時には"将棋"ではなく"将棋観戦"と言いますよ」
また別の機会には、K社の役員会議にオブザーバーとして加わって、そこの社長と話しました。
「ええ、自分は羽生さんの本を会社経営の参考にするためにいつも読んでます。生きている間に1度は彼に会いたいと思っています。10年以上もアメリカで疲れる暇もなく働いているせいで誰とも将棋を指せなかったのですが、でも将棋に関する雑誌はずっと読んできました。役員会に招集されて日本に戻っても、すぐに世界一周に飛び立たないといけないので、雑誌を読むのは主に機内でですけどね。将棋を指す暇は全くありません。」
「将棋の大ファンじゃないですか!」
「いえいえ。上手くはないんです。子供の時にはいつでも将棋で遊んでましたが。今となっては将棋の腕を磨く時間すらとれません。今はコンピュータ将棋も強くなりましたが、自分にとっては羽生さんが活躍しているのを遙か遠くから静かに見守るのが、自分の将棋の腕を磨くよりもいいと考えてます。」
「そのうち、タイトル戦の大盤解説を一緒に見に行きましょう?」
「いいですね」
「将棋界は完璧な才能で成り立っています。谷川浩司。あの人が出てきた時は、まさしくその才能、完璧な才能の人が現れたと思いました。しばらくしたら、羽生善治が現れました。10年経って、別の完璧な才能が現れるんです。なんというか、将棋界はかくも信じがたき世界ですよ。私が強く将棋に惹かれるのもそこです。でも私は将棋を指すのがうまくないんです。上手くないですから、将棋界の外から静かに見守ります。」
どうも世界中に、彼らのような"指さない将棋ファン"がまだまだ隠れていそうです。
最初ブログに将棋のエントリをこわごわ書いていました。将棋の上手い人がそれを読んで「こいつは将棋を知らないな、まともに指せもしないのになんでこんなことを書いているんだ」と思われるのではないかと思ったのです。
しかしながら、隠れ将棋ファンの皆さんから来た思いがけない反応をみて、私は将棋界で何かお役立ちの一端を担えるのではないか、また"指さない将棋ファン"というコンセプトが、ファン層を厚く、広くするために重要ではないか、と思うようになりました。
子供の将棋人口を増やすために親に将棋を広める、というのも大事ですし、それ以上に、将棋がグローバルになるるためにも大事です。
また、羽生さん、佐藤さん、深浦さん、渡辺さんのようなプロ棋士と仲良くなったのですが、同じようなことを皆さんも常々考えていたようで、"指さない将棋ファン"や"将棋観戦のファン"が増えるよう、私を励ましてくれました。
将棋を見て、楽しむのに、特段必要なものはありません。
誰でもすぐに「指さない将棋ファン」になることができます。
将棋を指さなくなっても、将棋界のことを考えている人、理由はともあれ将棋好きだけど、将棋が上手いとは言えない人、将棋を今まで指したことがないけれど、棋士の輝きに魅了されて、そのため将棋により興味が湧いた人。
それらの人たちに向けて、私はこの本を書いています。
将棋を指さずとも、将棋の楽しさはわかるように、素晴らしい棋士の楽しみを感じられるように、何か変わったことがほしくて将棋を見始めたくなるように。
本当にそうなって欲しいなと願いながら、私はこの本を書いています。