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2007-09-24

ひぐらし自粛騒動とマスコミ報道についてを分析してみた

ひぐらしファンとして、放送自粛に嘆き悲しんでいる著者でありますが、マスコミの安易な報道にはもっと嘆き悲しんでいる所存です。ひぐらし原因少女が殺害?ふざけんなよてめぇぬっこぬっこにしてやんよ、ということで、マスコミ報道に対して初歩的統計学知識でもって批判してみたいと思います。以下は、専門家でもマスコミ関係者でもない一ひぐらしファンの戯言です。

原因と結果

何らかの原因と結果を説明する理論を実証するには実験をしなければいけません。実験とは、検証したい変数を限定し、その変数に大してなんらかの人工的な付加をかけることで、理論構築のための結果を導きだそうとすることです。例えば、"ポテトチップスを食べると体重が増える"という理論を実証したいのであれば、必要数の被験者に大してフォアグラ用のガチョウのようにポテトチップスを食べ続けさせれば良いわけです。しかし、実験をするに当たって気をつけなければならないことは、人口的に付加与える変数以外に結果に影響を及ぼし得るような他の変数が多数あると結果は歪曲されてしまう、ということです。たとえば、"ポテトチップスを食べると体重が増える"を実証する実験を行うに当たり、被験者が他に高カロリー食べ物を食べていたり、運動不足であったりすると、検証したいポテトチップスと体重増加の原因-結果関係を検証することが困難です。なので、実験する人間被験者に大して厳しく食事管理を行ったり、適度な運動が可能なような環境を用意することが必要です。実験において重要なことは、検証する変数を限定すること、環境を設定すること、といえます。

関係

実験をすることはお金もかかりますし、手間もかかります。そもそも、変数を限定する環境被験者を長時間拘束することは、検証内容によっては非常に困難になります。そこで、実験の代わりに観察という手段で理論の実証を試みることになります。観察の場合、サンプルとして選ばれた人たちは自然環境で通常の生活をし、実験者が彼らに人工的な付加を与えることはありません。実験者は通常生活を営むサンプルから検証したい変数を含むデータを集め、それをもとに変数と結果の関係性を実証します。重要なのは、観察の場合は、検証している変数の他に結果に影響を及ぼし得る変数がたくさんあることです。"ポテトチップスを食べると体重が増える"を例にとると、観察では被験者からポテトチップスを頻繁に食べるという情報体重を聞き出し、それらの関係性を検証していく訳です。しかし、ポテトチップスを頻繁に食べ、かつ太っているサンプルの人間が、他にも多くの太る原因となる生活習慣を踏襲していることは安易に想像できることであり、ポテトチップスを頻繁に食べることはたくさんの変数の一つでしかありません 。サンプルのデータを使った観察からはポテトチップスという変数体重という変数は並列に位置し、二つは関係している、ということしか導きだせません。ポテトチップスを食べるからピザになる、のではなく、ピザだからポテトチップスを良く食べている、かもしれないのです。多数の変数が関わっている観察においては、原因と結果を引き出すことはできません。

ひぐらし自粛騒動に応用してみる

ひぐらし自粛事件を以上のことをふまえて検証してみます。まず、京都16歳少女の父殺害事件から”ひぐらしのなく頃に”という作品が少女を殺害に導いた、という原因と結果の理論をたてることは、現時点の証拠不足により不可能です。少女が殺害に導いた変数は、父との関係学校での人間関係など計り知れません。 上記で検証したように、原因と結果を検証するには変数を限定しなければならないのであり、マスコミが安易に検証できるものではありません。 以下の

「歪曲して事件に影響があったかのように報道した」説に賛成の人が多いだろう… 何か事件が起こると、浅い考察原因を探すのが現在マスコミのお得意分野であることも事実である。

http://www.encount.net/rettou/2_3267.php

という近添さんの発言を厳密に検証すると以上のようになります。

しかしマスコミは結構狡賢いもので、”ひぐらしのなく頃に”が殺人原因になりましたよーとは言いません。あくまでも二つの事柄の関係性を繰り返し、オドロオドロしい音楽ナレーションにのせて報道することによって、視聴者側が自らの頭で二つの事柄の原因-結果関係を描いてしまいます(マスコミテレビが放送するリアリティーと現実世界の二つを視聴者がごっちゃに考えてしまう、ということを説明するCultivation Theoryという理論もあります)。 マスコミが放送しているのは関係性の羅列でしかなく、原因と結果は厳密な検証が行われないと実証されない、というリタラシーを持って報道を読むことが必要です。

更にマスコミは事件が起こると事件の一般化を試みます。”ひぐらしのなく頃に”を見ていた少女が父親を殺害した、よってかような作品を見ている人間殺人者予備軍、というような図式です。しかし、個々の事件のようなケーススタディーにおいては、事件の構造的解析を行うことはできても、その事件から社会的な構造を描き、実証することはできません。サンプル数が1しかない検証内容なんて鼻糞くらいの価値しかありません。マスコミ報道を読むには、検証にはどれくらいのサンプルが使われているのかを注意深くまた批判的に見ていく必要があります。マスコミがよく使うメタ分析(既に行われている研究結果などを使って実証していくこと。専門家の話というのはこれに当たります)も視聴者自らが論文に当たって理論の検証を行うのが良いのかもしれません。あるある大辞典メタ分析を適当に並べ立てて原因と結果をでっちあげた報道の悪いケースです。

エセ科学報道にも宿るっぽい

エセ科学議論が一時期はやりましたが、エセ科学的な検証方法は科学以外の様々な議論に当てはまります。議論において、原因と結果を実証することは最も難しく、マスコミが行うような一夜漬けの検証では不可能といっても良いでしょう。しかし、マスコミ原因-結果関係をでっちあげる安易な報道は強力な影響力をもっており、間違ったリアリティーを視聴者に植え付けます。マスコミ報道を反証するのに個々の事件に対する知識や専門的な知識はいりません。議論を批判するには、ちょっとした議論形式の知識と申し訳程度の統計学の知識で十分です。lovelovedogさんが似たようなスタンスブログを書いてはりますね。マスコミメタ分析に対するメタメタ分析(なんのこっちゃ) でもってばしばしっと文句をつけていくのが、健全たる市民としての義務だと思います。

2007-08-13

Re:そりゃ、どう思った?って聞いたら「リアルだ」「感動した」って言

http://anond.hatelabo.jp/20070812200016

大体、子どもは昔々の物語なんかどうでもいいのだ。もっと世間や社会のことが知りたいのだ。

小学生中学校のことが知りたいし、中学生高校のことが知りたいのだ。東京の同年代の生活が知りたいのだ。

だのに国語教科書も推薦図書も、こんなガキいねーよっていう、子どもの目から見ても

オッサンの時代の子どもの話(しかも幻想妄想)だろ、といったズレたものしかない。

自分の子供の頃に引き寄せて考えてみると、学校推薦図書のラインナップたるや、おそらく20年前とそう変わらないのではないか、という事に気づき、少なからず愕然とする部分があるのが、泣ける。

ほかにも、大人から見た小中高の頃というのは、「子供時代」という十把一絡げのカテゴリーの中に記憶押し込まれてしまっている事が多いため、扱いが大雑把になってしまう嫌いはある。これに対し、自分の将来に対してさまざまな希望と不安を抱いている子たちにとっては、自分の属する世代の少し先の、まだ見知らぬ世界が気になるのは、ある意味当然のことであるとは言える。

良識ある大人は何も子どもが欲しいと思っているものを与えてくれない。子どもを使って商売をしようと思ってる大人だけが、

欲しいものを与えてくれるのだ。代わりのものも与えられないくせに、罵倒して放っておいて大人面されれば、

そりゃー大人ウゼエって話になるわな。

詳細は『中二病』の項目に解説をゆずるとして、子供世代から見た「世の中について知りたいこと」というものと、大人世代から振り返ってみた「子供時代にできれば知っておくべきだったこと」が違うのは、至極当然の話である。

だいたい『良薬は口に苦し』という言葉の通り、本当に人間にとって有用なものは、けっして口当たりの良いものなどではなく、むしろ苦味を感じることのほうが多いのだ。だからといって、それを嫌がって自分の好きなものばかり食べていれば、いつしかビタミンの欠乏やインスリンの分泌過多などを起こして、やがては身体を壊すハメになる。

「自分の気に入ったものが得られない」といった理由で周囲の大人を憎み、「自分の好むものを与えてくれる大人」にホイホイと付いていった結果、道を誤ってヤクザパシリになったり、あるいはアングラ業界に入ってしまったりする未成年が、世の中にいったいどれだけいるのかと想像すると、自分は心が寒くなる。
 そういった、まさに「似たような失敗をする者」が少しでも減る事を願って、先人たちは『地獄への道は善意で敷き詰められている』といったようなことわざを、貴重なメッセージとして後世に残してくれているのである。

だがそれでも、きょうもまた悲喜劇は繰り返される。「愚者は経験に学び、賢者歴史に学ぶ」のことわざの通り、身を以て体感することでしか予防・学習ができないという悲しい性(さが)を持っているのが、人間というものだからだ。ましてや、人生経験も浅い子たちにとって、「今はつらいが、将来それがきっと役に立つ時が来る」ことの意味が実感できるには、彼らの分別というものはあまりに浅い。そしてそれを導き正すのは、大人たちの努めというものである。

だからこそ、大人は子供たちにウザがられても、「世の中でやっていい事・悪い事」「子供時代に最低限しなくてはならない事」「歴史を元にしたケーススタディ」を、口を酸っぱくして教えるものなのだ。近い将来に、彼ら・彼女らが、その意味を実感してくれる事を願って。

2007-07-18

教育は、学べる

ペンもノートも持ってこない学生の指導法

つい先日まで、私は徳保さんの教育ネタを読むたび、この人はなんて斬新な考え方を持っているんだろう、と思っていた。私にはこんな洞察できないよ。私にはこんな発想は生まれないよ、と。(内容に賛成する・しないはとりあえず置いといて。)

しかし最近教育についていろいろと学んでみると、彼の考え方はそう斬新でもないな、と思うようになった。(もちろん、考えつくことと実際に行動することとでは、レベルが違う。言うは易く行うは難し。この点、徳保さんは尊敬に値する。)

私は教育の「経験を積んだ」わけではない。ただ教育に関する「本を読んで考えた」だけだ。期間もわずか1ヶ月程度にすぎない。しかしそれだけでも、教育というものがずっと分かるようになった。

教育は学ぶもんじゃないよ、という人がいるが、この考えは理解しがたい。様々な考え方、膨大なケーススタディーに触れても、彼らは何も得るものが無いと言いたいのだろうか?

私は本の中で提示される考え方やケーススタディーに、大いに刺激を受けた。そして、落ち込むくらい反省もした。しかしこの経験によって、私は教育に対する視野を広げることができた。

現実に起きている問題は何か。どのような状態が望ましいのか。問題を解決に導くために、私は何をすればいいのか。……1ヶ月前の私と今の私とでは、教育に関わる問題を捉える目が明らかに違う。

教育は、学べる。

2007-05-16

IPv4/IPv6

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20070516/271198/

ここ増田にも、難民となってしまった増田民が多数いた事だろう。とんだ災難でしたな。

それにしても、4千のルータに1万五千のルーティング情報ですか。想像したくない規模だね。

そういえば東の光はIPv6アドレスを配り始めているんだよね。その情報はどの程度あったんだろうか。IPv4/IPv6混在環境がルーティング情報の肥大化に拍車をかけているという事はあるんだろうか。

たぶん、IPv6環境に統一できれば、かなりルーティング情報も軽くなるんだろうな。しかし、これからかなりの長期に渡りIPv4/IPv6混在環境が続くんだろうね。その間、フラグメント化が進むIPv4のルーティング情報と、増え続けるIPv6のルーティング情報に対応していかなければならないんだろう。大変な事だ。

枯渇が近いといわれ、フラグメント化の進むIPv4アドレス、その問題を解消するため普及に勤め、増えるだろうIPv6ルーティング。

次は西で起きるだろうか。これをケーススタディとして、回避できるだろうか。

なんにせよ、がんばれよ。中の人

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