http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1372924.html
アタリの報告がない! → 値段分以上のものは入ってる(広告詐称の疑いはあるかも)
ネタとしても面白くない! → それで怒るの?
つーかこんだけ騒ぎになってりゃ十分ネタになってるよ傍目には。
同感。
家電屋の福袋なんて昔からこんなもんだ、不幸(不況)って書いてある分良心的。
金銭的にも精神的にも余裕のない人が増えてるのかなあ
数日前に、人が少なめでのんびりできそうってことで
年下の子と初詣してきたんだ。
その前からメールのやり取りはしてて、
こちらが質問して、向こうはそれに答えるってのが多かった。
会ったときに思ったのはどんよりとしたオーラ。
短いだけの返事とか多かったよね・・・
うーーん
メールの時は間を空けたりできるから良かったけど
実際の会話で、はい。いいえ・・・だけはキツいです
これが表情がコロコロ変わりつつならいいけど
もちろん話上手くないとか年齢に差があるとか
考慮すると私に悪い部分が多いんだろうけど・・・
会話する気がない人といるのは辛いね。
忠告したげた方が良かったのかな・・・人付き合い難しいです、ぬぅ
うわー、すごいダブルスタンダード。
知り合いだったら苦笑して生暖かく見守っちゃうけど、友達だったら遠ざかること間違いなし。
ましてやセフレや彼氏にはしたくない。旦那なんてとんでもない。
よほど条件がいいなら別だけれども。鳩ぽっぽくらいおこづかいもらえるとかねー。
この日記は読むと不安とかが伝播する可能性があるから、そういうのが苦手な人は読まないでほしい。
社会人2年目。で、今日が仕事始めなんだけど、仕事の相方は有給を貰って今日は休んでる。
ウチの工場は俺とその相方で回してるんで、今日は仕事始めなのに工場には自分ひとりってわけだ。
で、弱気になってて、1年間やっていけるのかって漠然とした不安を抱えてた矢先に、工場の年間の出勤日表を見たら、1月5日は左上にあって、12月28日の仕事納めが右下にある。
これは当たり前なんだけど、なんか1年間の長さを具体的に表してる感じがして不安が爆発して、午前中も、午後のついさっきまでも仕事があんまり手につかなかった。
1年間って概念って恐ろしいよな。時ってのは連続してるはずなのに、そう区切られると長さが具体的になるから余計に怖くなる。
・・・ともかく、ここでこうやって吐いたら気持ちが楽になった。ちょっと早めの午後の休憩も終わりだ。定時までだけどがんばるぜ。
『真の誇り』なんつー曖昧かつ定義不可能なものに自己満足以上の意味なんて無いからな。
「俺は真の誇りを持ってるよ」と俺が言えば、君はそれを否定することはできないし、無理やり否定するのであれば同じ論法で君自身が否定される。
『真面目なのはむしろ悪いことである』という事実に君が気づく日は来るのだろうか。
リア充と非リア充の違い(あるいは所謂コミュ力の高い人間と低い人間の違い)はここなんだろうな。
俺は非コミュで非リア充だと開き直っているが、他人の力を借りたり必要以上に他人と協力することに抵抗感を感じる。
よっぽど仲のよい友人は別として、「人脈」レベルの他人が俺を助けてくれるとは期待していない。
できることなら人手など借りないで何でも一人でやってしまいたいと思っている。
まあ、他人に対して徹底的に冷徹になり他人を駒や道具として扱えるようになることがリア充への第一歩なんだろうね。
>終始一貫して(多分結党当時から)利益を損なう事しか考えてなかった気がするが。
そりゃ、彼らがうまくやるか、失敗するかという能力と政策の中身でみてるからだよ。
オレもそう思う。
オレがリア充になれないのは、そういう駆け引きみたいなのが苦手なんだ。
人間のダーティな部分が見えてしまうというか。
利己的な気持ちがあからさまになってしまう。
まあオレだって社会に参加している点ですでにダーティなんだが。
完全にドライな関係だったら全然問題ない。
違うんだよ。そういうのは問題じゃないんだよ。
リア充は人脈がある。たとえそれが厚い信頼と比べて希薄なものであっても、裏表という繋がりの差があっても、理由を付けて仕事を与えたり貰えたりする部分が充実しているんだよ。
誰だって人に打ち明けられない事は抱えているし、どういう情報を開示して逆に隠すかは程度問題でない事も分かっている。
あいつらはただ利害の一致する人間を集めて集団を形成してその小さな社会構造に貢献すると同時に自分の利益を得ているだけだ。非コミュ引きこもりにはまずできない。
その問題を単純に「友達が多そう」だとか「楽しそうに騒いでるだけ」なんていう印象で隠蔽するのはやめろ。元増田は素で分かってないかもしれんが。
自己責任論に終始する人ほど自分に自信が無くて自分の自信の無さを知られたくないんだと思う。
どんなことでも最終的には『自己の責任』を問われるのは仕方のないことだけれども、
『自己の責任』が発生するに至った経緯(そこにもっと大きな責任を問われるべき事象もあるかもしれない)を
分析して次に生かしていかないといけないと思う。