http://anond.hatelabo.jp/20091128000814から続き
恐る恐る視線を戻すと、美樹はレポートの作業を再開させていた。軽快な音を立てて、シャーペンが紙面を滑っている。まだずっと続くのであろう作業を呆然と見守っていてもつまらないし、そんなことをしていようものならばまた何か言われてしまうのが目に見えていたので、とにかく僕も何かをしようと数学の問題集を開いた。まだ先とはいえ、もうそろそろ今期末のテストが近づいている。授業にうまくついていけていない僕にとっては、まさしく恐怖のイベントだ。このままだとまず間違いなく、確実に単位を落とす。必修科目だから尚更やばい。
小さく深呼吸をしてから問題集に目を移す。シャーペンを片手に、頑張りますかと、気合を入れた。
そんな折にふと視界に入った二人分のエスプレッソコーヒーは、机の端でいやに肩身が狭そうで、微かな湯気をひっそりと立ち昇らせ続けていた。
生まれ始めた沈黙の時間。二人で一緒のテーブルを囲みながら黙々と作業を続ける最中、店内の音楽はジャズっぽくなり、クラッシックっぽくなった。ラウンジミュージックが流れ、ハウスミュージックの印象的なバスドラムが僕の集中力を飛躍的に高めてくれたような気がする。
そしておそらくそれは美樹にしても同じことであって、だからこそ僕はその一声をかけるときに、自分でも思いもみなかったほどに大きな勇気を振り絞らなくてはならなくなっていた。
「……な、なあ、美樹。ちょ、ちょっといいかな」
そうおずおずと尋ねた僕に、順調に進んでいた作業を中断させられた美樹は露骨に不快感を表しながら顔を上げた。微かに何か特徴的な物音が聞こえたような気がする。短く弾ける小さな苛立ち。おそらく舌打ちをされたんじゃないだろうかと考えた。眉間に寄ったしわは一段と深くなっている。僕の中で降り積もる恐怖は次第に厚みを増していく。
「あ、あのさ。ここの問題なんだけどね、さっぱり解き方が分からなくて」
生唾を呑んでから微妙に震える声でそう言って、僕は数学の問題集の左上に書かれた問題を指差した。美樹は僕の手からひったくるようにして問題集を奪うと、しばらくの間その問題をじっくりと見て、それから僕の方に視線を戻した。呆れ返った瞳が僕をひやりとさせる。
「亮太、こんなのも分かんないの? 基本中の基本でしょうが。数学の基礎でしょこれ。高校レベルの問題じゃない。……ねえ、馬鹿なの? それともなに、ただ私に話しかけたかっただけなの? 随分と面倒なやり方をするもんだね」
「いや、本気で分からないんだけど……」
言うや美樹が宙を仰いだ。なんてこったい。そう脱力しきった彼女の身体が物語っている。言葉になんかしなくてもひしひしと伝わってきていた。同時に、ずっと懸念していた嫌な予感がはっきりとした輪郭線を捉え始める。
美樹はひとつ大きなため息をついてから、再び僕に視線を戻した。浮かんでいた予想通りの表情を見て、僕は一瞬で気分が滅入ってしまった。
「亮太ってさ、一応大学生だよね。それも私とおんなじ大学の。ねえ、そうだよね。私、間違ってないよね。ね。じゃあさ、やったでしょこれと似た問題。やったよねえ。同じ高校だったんだしさ。できないと、ここにいられるわけがないものね。……あんたさ、どれだけ忘れるの早いのよ。大丈夫? 心配になってきたわよ。もしかすると、脳細胞がほとんど死んでんじゃないの? それともニューロンの絶対数が足りないのかしら。もしかしたら亮太の神経だけ伝達速度が遅いのかもしれないね。いやー、凄いね。珍しいよ。新人類なんじゃないの?」
言われたい放題だった。随分と僕という存在が小さくなったような気がした。
美樹はそこまで一気にまくし立てると、最後に小さく「考えられない」とぼやいた。そしてまたひとつ大きなため息を吐くと、さも面倒くさそうに僕に解法を教え始めてくれた。段々と店内の照明が赤暗くなり始めたような気がする。正直なところ僕も考えられなかった。
数学の問題がひとつ分からなかっただけなのに、どうしてここまで言われなきゃならないのだろう。確かに簡単な問題だったのかもしれない。高校の時に似たような問題を解いたかもしれない。けれど、だからと言って新人類などと馬鹿にするのは酷過ぎないだろうか。本質的に愚弄している。そりゃ僕は美樹に比べたら恐ろしく頭が悪いかもしれないけれど(確かにどうして同じ大学に入れたのか今でも不思議でならない)、こんなにぼろくそに言われる筋合いはないと思う。
腹の底に暴れる蟲を一匹仕舞い込みながら、それでも僕は低頭身を乗り出して解法を教えてくれる美樹の声をしっかりと聞いていた。美樹はこういう奴なんだから。我慢しなくちゃならない。仕方がないんだ。そう思っていた。思うように言い聞かせていた。
ずんずんと進んでいく説明を聞きながら、僕は公式をひとつ忘れてしまっていたことに気が付いた。なるほど、そのせいで出来なかったのかと、気が付いてなんだか清々しい気分になった。
一方で、そんな僕の発見など気にも留めない美樹の説明は続いていく。かなり早かった。端的に説明しながら、僕が理解出来ているかどうかにも関係なく進んでいく。お陰でいつの間にか進んでいた計算の過程がよく分からなくなってしまった。
「ちょ、ちょっと待って。ここはどうやってこうなるんだ?」
慌てて尋ねた僕を見上げた美樹の瞳に、苛立ちが燃え上がっていた。やばい。僕は更なる罵詈雑言が放たれることを覚悟する。機関銃やガトリング砲がガラガラと音を立てて照準を合わせ始めている。
美樹の唇がわなないた。
(4/5に続く)
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