10代,20代なんてのは人間が数えやすいように分割した10進数での区切りでしかないわけだから,それにこだわるのは正にナンセンスだと思う。30歳だなんて自分から言わないと誰にもわからない事なんだし,別に30歳になった瞬間に何か急に変わるわけでもないでしょ。変わるとすればそれはあなたの気持ちだけだと思うな。
それに仮に代で考えたとしても,30歳なんて20代のロスタイムみたいなもんでしょ。20代となんら変わらない。
まー,何が言いたいのかってもっと気楽に行こうぜってこと。
おまえがネタ氏?じゃないんだったらその気持ちがわかるはずないだろ。問うに落ちず語るに落ちるとはまさにこのことだな。
このどれか(またはいくつか)をやれば、ドアノブでも死ねるよ。
うちは自営業をいとなんでいた。家族全員で働いて貯めた金なんだよ。
それに通帳を取り上げたといえ、年金やらなにやらで月に15万は自由の
きく金を手にしていた(医療費やら食費やらそのへんは子供世帯持ちなので)。
てか、お金云々はぶっちゃけどうでもいい。好きなように生きてくれればいいと
思ってた。ただし、人に迷惑をかけたり、家族を悲しませたりしない限りにおいて。
妻がいるのに、白昼堂々と浮気を繰り返す一連の行動を、家族として見過ごしては
いられなかったということだよ。60年間ずっと裏切られ続けた祖母の身にもなってみろ。
何かを撮ると自分が期待していないものも写って、それが後から嬉しいって事は確かにあるね。
実際問題俺も写真は素人だから、いい写真なんてのは本当に一握りだけど、
何かを思い出すきっかけになったり、今では撮れない写真も多い。
ただ、例えば俺の写真の多くは大学時代小汚いサークル棟で撮影したものなので、
ものすごい後の時代の人から見たら「○○大学はボロいなぁ」とか思われるかも。
相手が反論してきたとする。色々。
でも俺はそれに納得できない箇所が多々あり、それは違うのではないかと更に反論する。
すると、「お前結局同意してほしいだけじゃん」と言われた。
えー。
じゃあ、何か。相手が、自分の意見に対して言ってくれた意見は必ず一つはそのまま同意しないといけないってことなのか?そうじゃないと「同意を欲しがってるだけ」になってしまうのか。
俺は「そこはおかしい論理じゃないか?」と思ったら言ってしまう癖がある。
だから相手が何か言ってきたときでも自分の意見が元になってるときでも、納得できない、それはおかしい、と思ったら反論してしまう。ぶっちゃけ、大抵の場合、納得できないから、納得できるまで俺は反論したり質問したりする。そうすると相手は大抵、↑のように、「同意して欲しいだけか」とか「ああもういいよ」となってしまう。しょんぼり。
会話の相手としてウザいのはわかるけど、「同意して欲しいだけ」って何なんだ。
ぶっちゃけお前の論理に穴があるからいけないんだろ。それを棚に上げて同意して欲しいだけって何それ。お前だって俺の意見に更に反論してくればいいじゃないか。と思ってしまう。
なんていうか自分の意見を、誤解されるのが一番ムカつく。分かってくれた上での反論はムカつかないけど。同意してほしいわけじゃないが、「理解」して欲しいってことなのだろうか。
何回も遊びでやってて今回本気で極限まで落としたけど、骨折れる位力加えないと死ねないかもしれない。
ドアノブでの首吊りは無理。手軽で楽な死に方って無いもんだね。
ホント駄目人間は死ぬのも難儀だから生まれない方が良い。
誰か他に楽な死に方開発してくれないかな。
確かにあのニュースでショック受けてる奴は一体…とは思ったが
だからといって消費者に誤解を与えやすい商品でも、消費者がどうせウソを暴くから無問題ってわけにはいかんしょ。
それはそれで是正されるべきっつーかね。
まともに一日分とれると信じてるのはちょっと信じすぎとは思うけど
一番悪いのはやはりそうやって誤解させる文章で売り出す側だから。
夕べ、妻が僕への控えめな感謝をあらわしながらこんな話をしてくれた。
「
実はそう思うようなきっかけがあったんだけど、
すごく気持ちが良くって、その時車を運転しながら『働いていた時は天気の良い日にドライブなんてできなかったな。』って思ったの。
当時は周囲のみんなに『お嫁さんになるのが夢なんです!』とか言ってたのね。
結構歳もいってたから、そういう話題になったときはいつもそう言ってたの。
そんなことを思い出したら、今の私って大好きな子供と天気の良い日にドライブ…まぁ買い物なんだけど、に行ける専業主婦でいれて、すごく恵まれているんだなって思ったの。
結婚する前でどん底だった時があったんだけど、その時友達に『○○の考える幸せってどういうもの?』って聞かれたのね。
私はその時『小さな幸せが積み重なったものかな。』って答えたの。
今は本当にその通りだなって思うの。
子供を相手にしていて、やっぱり今でもかっとなったりする時もあるんだけど、でもみんな経験していくことなんだなって思うし、そしたら前より気持ちも楽になったの。
」
積み重ねられていく小さな幸せは、その場所から見ていてはいつまでたっても小さな幸せしか得られないのだと思う。
その小さな幸せも、またその新しい場所に立てば見えなくなってしまう。
それはいつまでたっても幸せにはなれない悲しい考え方だと思う。
でも妻はそれを俯瞰して見ることが出来るようになった。
積み重ねられていった小さな幸せが大きな幸せになっているということを実感できるようになった。
それは素晴らしいことだと思う。
それは人が幸せになるひとつの答えなんだと思う。
こういうふうに理屈で言えば確かにそうなんだけど、理屈だけで実際にそれを実感できるようになるってものじゃない。
だからそれを実感できるっていうことは、それは妻の誇るべき資質であるって事なんだと思う。
僕は妻にそんなことを話した。
僕らはこうして僕らの幸せの形というものを共有できたんだと思う。
増田のみんな、以前の書込みでは心配してくれて本当にありがとう。
僕らはきっと幸せになる。
今の僕はもうそれを確信している。
地球温暖化なんてゴアのでっちあげ。
アメリカ人みたいになってきているのかも。
価値観が多様化してきてて、従来あった日本人ベースの思考があてはまらない。
他人を目をそれほど気にしない世の中になってきて、馬鹿でも恥ずかしい社会ではなくなった。
そして自覚しない馬鹿が増えたんだ。昔は馬鹿でも”自分は馬鹿”って知っていたもんだ。
今は馬鹿にやさしい社会。馬鹿と片付けられずに、いちいちなんでも説明してくれる。馬鹿でもググればたいていの事はわかる。自分で考える必要がない。生きて行くだけなら思考する必要が無いのだ。
その子は生まれつき脳に欠陥があり、笑うという感情表現しかできなかった。彼女の感情の起伏は喜怒哀楽すべて「喜」で表現されるのだった。しかも、言語にも障害があり、日常会話はほとんどできなかった。
幼稚園までは、いつも笑っているかわいい女の子、で通っていた。しかし、小学校に上がってからは、薄気味悪い、と、ひどいいじめにあった。彼女はそれでも、否定の言葉をほとんど発することができず、ただ笑っていた。それが不気味だと、ますますいじめに拍車がかかる始末だった。
中学校に進学して、事態は一変する。女の子は男子から一転して暖かく接せられるようになった…少なくとも普段は。
女の子は、喃語と、稚拙な拒絶の意思しか発することができなかった。しかも、笑ったままで。男どもにとっては、その様子は何度やっても刺激に満ちた体験だったようだ。彼等は取り憑かれたようにかわるがわる彼女を犯し続けた。笑いながら、彼女は堪えた。ときに堪えきれず、その目は涙を湛えた。笑いながら、犯されながら、彼女は泣いた。
今や女の子も成人し、誰の子だかわからない息子も幼稚園へ上がる年齢となった。訓練により簡単な接客用語ぐらいは扱えるようになり、彼女は今スーパーのアルバイトで生計を繋いでいる。お客とのトラブルもたまにあるが、総じて笑顔が好評なため、お店が明るくなると他の店員からの評判もよい。今日も女の子は変わらぬ笑顔で忙しく過ごしている。だが、その笑顔が変わることもないゆえ、彼女の本心を知るものもいない。