前も書いたけど、他人の心はわからない。
だから、けっきょく行動を左右するのは「自分がどう思うか」しかないんだよ。
わかんないんだよ。
フラグかどうかなんてわかんない。
それでも「フラグだ」って信じて、前に進めって言ってんの。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070719/13294 を読んで思い出した。
当時私は受験生、お嬢様系女子大の受験に臨むところだった。友達とキャンパスを移動していたら、制服のスカートの裾がウエスト部分に挟まってスリップ丸出しおぱんつすけすけの女子がいた。おぱんつはすばらしい優雅なレースをあしらった純白のもので、受験用勝負ぱんつと思われた。たぶん試験前にトイレを済ませて、そのときに挟まったんだろう、ならこのまま試験会場に行ってしまうかも。私は反射的に彼女の肩を叩いて知人のようなそぶりで植え込みの陰に誘い込み、スカート上がってますよと囁いた。彼女耳まで真っ赤になって、もごもごとお礼を言いながら身じまいした。
さて驚いたのは同行していた友達の反応だった。恥かかせてかわいそうじゃん、余計なことして、と言うのである。えーでも誰も教えてくれなかったら面接もあのまんま受けちゃったかもだよ? でも今恥かかせることないじゃん、私なら教えて欲しくない、と彼女。…そうなんか? 私ならおぱんつ見えてたらそっと耳打ちしてほしいと思う。頭だけ隠して尻も隠せたつもりになってるダチョウじみたまねはしたくない。
で、いろんな価値観があるなぁとは思いつつも、私はその後同じ大学に進学した友達のパンツの尻が破れているのやらワンピースのジッパーが壊れてブラジャーが見えているのやらを指摘し続けて、その都度嫌な顔をされたのであったが、私はおぱんつ見えてますよ指摘行為をやめるつもりはなかった。なぜなら彼女は、スカートをはくと決まっておぱんつ丸出しでしゃがんでしまう尻の甘い私に、ぱんつ見えてるよと間髪を入れず指摘してくれる人だったからだ。もしかしたら彼女は、おぱんつ見えてますよ指摘行為は家族や親友といった親しい間柄でないと行うべきでないものと感じていたかもしれない。赤の他人によるおぱんつ見えてますよ指摘行為>不特定多数におぱんつ見せ続ける>親しい人によるおぱんつ見えてますよ指摘行為、という恥の序列は理解できる。ともかくそれからも長い間、私たちはお互いによるおぱんつ見えてますよ指摘行為を行えるごく親しい友達であり続けたのであった。
えー?フラグ立ってる?どこに?
あんまり大学では友達つくろうって感じはないな。もうただ授業受けに来てる感じ。
フラグ立ってるなら、「大学で会った人」に「大学で友達作ろうって感じはしない」なんて失礼な事は言わない。
俺は、こういう言葉が、結構好きだ。
真摯さとポエミーなのって紙一重な時があって、
明確な区別つけらんない時もあるなって思うけど、
でも、混同するのは違うと思うから。
んん、まてよ、そうする他ないから、そうしているというのか?
横文字にするとなんだかカッコイイですよね。
世の中で特別な存在なのだと思っていた時期がありました。
常に新しい価値観を生み出し続け、
皆があっと驚くようなアイデアを見せ、
自分の作り出すものが凄ければ、
センスを研ぎ澄まし、
常に圧倒するような完璧な物を作り続け、
自分が納得のいく所までこだわり、
自分の力と作った物で皆を動かさねばいけないと
思っていた時期もありました。
自分はデザインだけを考え、
デザインだけに集中し、
デザイン以外の事を行うのは悪と考えていた時期もありました。
そんな考えも、今思えば非常に恥ずかしく、
もし、タイムマシンがあれば、
過去へ行き、そんな自分に酒でもオゴりつつ、
色々と、ゆっくりと話をしてあげたいと思うようになりました。
なんだかんだで、僕はプロとしてデザインでお金を貰い始めてから
6年ほど経ちました。
まだまだ視野は狭いとは思いますが、
それでも、上に書いたような事を考えていた時よりは、
よく物事が見えるようになってきたかなと思っております。
久しぶりに深夜にテレビを見ていると、
素晴らしいデザインの製品やアイデアなどが取り上げられていました。
画面の中のはなちゃんは、興味深そうに製品にコメントをしていました。
でも、僕はあまり興味を感じることは出来ませんでした。
リアルさというのが感じないというのか、なんというのか、
非常に奇妙な感じがしました。
こんなものは自分の好みもあるのかもしれないので、
偉そうなことは言えませんが…。
僕は仕事に対しての考えのひとつに、
という妙な意識を持っています。
そもそも「仕事」って何でしょうね?
僕は、仕事というのは、必要とされているものに対してサービスを行い、
その代価として報酬を頂くものだと考えております。
それは人間が相手であったり、世の中が相手であったり、環境だったり。
報酬というのも、お金であったり、スキルであったり、経験だったり。
求められている事に最大限に応えてあげる。
そんな事だと思うんですよね。
相手が何を求めているか、何に困っているのか、何を知りたいのか、
そして何を伝え、何を形にしたいのか。
この「何を伝え、何を形にしたいのか」、
という要望に対して、クライアントや、
最大限のサービスで応えてあげているんだなぁ、
と思うようになりました。
クライアントの伝えたい意図をどうやって伝えるか?
今は、デザインというのはあくまでも手段。
自分の手持ちの武器のひとつと考えるようになりました。
案件次第ではデザインをしない時もあります。
その方が妥当だなと思うからです。
でも、それで仕事がまわり、
クライアントも満足し、
お客様も喜び、
世の中がちょっとでも良くなれば、
それでいいんじゃないかと今は思っています。
そう考えると非常に気楽というか、
変なプレッシャーというのが無くなった感じがして、
非常に精神的にも肉体的も楽になり、
非常にこのあたりの意識があいまいです。
アートとビジネスの狭間を行ったり来たりするからだと思いますが。
だからと言って、日頃のデザインのセンスや力を養わない、
ということでもありません。
必要な時に期待に応えられないようでは、プロではありません。
でもこういう考えって、
飲食関連等に代表されるようなサービス業と言われるものだったり、
みんな同じ考え方だと思うんですよね。
相手に対して最大限のサービスを行い、満足をしてもらう。
満足をしてもらうには自分には何ができるのか?
演出したり、根回ししたりしてスムーズに流してあげる。
もしくは情報自体を考えてあげる。
というようなサービスを行っている気がしますね。
これもあの番組のせい…、なのかな?
この日記も10年後の自分が見たら、
きっと恥ずかしいと思うのでしょうね。
あ、最後に、コミュニケーションスキルと対人術と会話術。
それと相手に対する思いやりと愛みたいなものと義理人情。
これが仕事で何よりも大事なものだと思いますわ。