llmの登場によって私の思考には新たな側面が加わった。うん、私はllmをしばくうちに次のような考えを得た:
辞書に載っているような言葉の定義は、意味ベクトルの説明のために他の言葉の意味ベクトルを合成しているわけだ。
もう一つは、言葉と意味ベクトルは、時の流れと状況に応じて離れたりくっついたりするということだ。
貴様の意味が変わったのは有名な話だ。せいぜいとか、お前、もそうだな。
そして、言葉と言葉の意味ベクトルは、個々人の知識と経験に依存する辞書によって個々人に届けられる。
哲学者とかは、その辞書による曲解を防ぐために、できるだけ意味の限定された言葉を合成して物事を説明しようとする。
あるいは、抽象出来事の隠喩に意味ベクトルを持たせたりすることもある。
もし自分を表す言葉がなければ、自分の意味ベクトルを表す言葉を考えれば良い。
ちなみに中学のころの話ね。 ちょっとアニメ見てるからってキャラをとりにいくのにアニメが好きって言いまくるのが失敗なんだよね。 それで嘘つきと言われないために微塵も心がゆさ...
なるほどね ガキの時って何かになろうとしてアホなことしがちだよな 自分を定義に合わせんじゃなくて、定義が自分を表すように考えないといけないのに
定義が自分を表すように考えるのも面倒くさいと思ってるのが今の考えなんだよなあ でも自己紹介は社会人なら必ずするんだろうし、まあこれってまっとうに生きることを捨てちゃって...
でも自己紹介は社会人なら必ずするんだろうし 胡乱な考え。まさか、自己紹介が正確でなければならないと思っている? それならば、窮屈な人生だろう
つまり自己紹介に「定義」を使うわけではないということか。まあ今まではそう思ってたし窮屈だったよ。でもそれなら正確でなければならない定義は何に使うために作るの?
llmの登場によって私の思考には新たな側面が加わった。うん、私はllmをしばくうちに次のような考えを得た: 言葉の意味は意味ベクトルである 辞書に載っているような言葉の定義は、...